会社の創造

何年かかったかわからないけど、気が向いたときに少しずつ読んでいた伊井直行岩崎彌太郎─「会社」の創造」をようやく読み終わった。

あらかじめ作りたいものがあって、結果としてそれを作ることができた、あるいはできなかった、という話ではないということ。とにかく闇雲に手を出して、あるいは手を引いて、行き当たりばったりに、その時その時の判断の積み重ねで、ひたすら最善策だと思うことを選び続けて、そのうち体を壊して死んだ。その人生で築き上げた資産やら地位やら名誉の総体は計り知れぬものだが、しかし結局その人が何を目指して何を目的としていたのかを、結果からとらえるのはむずかしいということ。「会社」というものをはじめて創造したのは、岩崎彌太郎であるとの仮説は一応立つけれども、少なくとも岩崎彌太郎本人が「会社」を成立させてやろうとの目論見でがんばっていたわけでは必ずしもないということ。それはある意味、一商人の「専制」であり「独裁」であったのかもしれず、かならずしも近代の「会社」的ではなかったのかもしれないが、ただし彼の「三菱」は、そう言い切るにはあまりにも、ことに海運事業において組織としての完成度が高く、資本主義下におけるもっとも理想的機構として、つまり「会社」として彼の組織が稼働していたことは否定しがたい事実だということ。

会社という概念をはじめて国内に紹介したのは、福沢諭吉であり渋沢栄一だった。だからその理論を忠実に反映し政府肝いりで設立された組織こそが日本初の「会社」にふさわしく「現在の銀行および株式会社の先駆けと言われる」(wikipedia)「為替会社・通商会社」が設立されたのは明治二年のことだが、実際のところその時点で福沢や渋沢すらまだ「株式会社」という組織機構を十全に理解していたとは言い難く、会社といっても実態として商人が合同で出資した営利共同体的なものとの区別もされていなかったという。

菅野和太郎は、会社史研究の古典「日本会社企業発生史の研究」(一九三一)で、両社が日本における株式会社の濫觴であるとしたが、その内実は次のようなものであった。

「実際会社の営業に参与したる人々は、素々会社企業なるものが新規だったため、両会社に就きて充分なる理解を有せなかった。即ち彼等は両会社を恰も官署であるかの如くに考え、自らも苗字帯刀が許されたため、官吏であると信じ、従って又会社の経営は直接に自己の利害に関するものではなく、官署の事務を執るに過ぎずと考え、会社の営業に就きて関心を有しなかった」

伊井直行岩崎彌太郎─「会社」の創造」309~310頁

 当時の「会社」のオフィスは畳敷き、「社員」は和服で髷を結っていたという。明治初期の時点で、まだ「苗字帯刀」が許されるということで保たれる矜持、これからは「官吏」として、この場所に日々務めることで俺のあらたな日々がはじまるのだと考えている「士族」の男を思い浮かべたとき、なんとも複雑だがかすかな可笑しみを感じさせる。皮肉でもなんでもなく素直に、君に幸あれと言いたくなる。でも、君はまだ気づいてないのだ。今の君は、もう「会社員」であって、君が仕えるべき対象は、すでに藩でも殿様でもないし会社経営者でもない。すでに労働価値を売る自由で孤独な近代的存在に過ぎないのだと。