どんな小説作品でも、まず小説としての世界の枠組みがあり、そこに登場人物が配置され、それぞれの立場の違いや目的や関わりが立案され、物語として展開されていくもので、P.K.ディック「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」も勿論そうなのだが、しかしこの作品が読む者を唖然とさせるのは、設定や展開といった枠組みを内側から蹴破るかのようにして、その小説自体が、必死に何かを考え、答えのない問いにもがき苦しむ姿を自ら露呈しているようだからだ。
アンドロイド3人を追うデッカードの心理状態は、後半につれてほとんどわけがわからないことになっていく。おそらくこれは、作者のディック自身が、この後どうすれば良いのか、何が正解なのかを、まるで将棋の終盤戦のように必死の形相で探りつつ、次の一行を書いているのではないかと、ここにはそういう迫力がある気がする。
アンドロイドたちと共にいるイジドアも同様だ。イジドアはこの物語において終始、無力なままだった。しかし彼が蜘蛛を見つけて、それを持ち帰ってからの展開の切迫感は何事だろうか。
この小説の登場人物たち、とりわけ人間にとっての苦しみの元は「感情移入」を巡るものだ。しかし、たとえば人間=感情移入の力をもつ存在で、アンドロイド=感情移入の力をもたない、あるいは弱い存在であると簡単に定義してしまうことは出来ない。この作品はそのジレンマに悩まくる。それを簡単に定義してしまうなら、それが可能な立場とはいったい何に由来するのかがわからなくなってしまう、誰が誰をどのように判断できるのか、その根拠の無さに、彼らは最後まで悩み苦しみぬく。
マーサー教はフェイクだったが、それでもフェイクなままでも依然として有効である。そんなウィルバー・マーサーの言葉を、デッカードもイジドアも聞く。デッカードはウィルバー・マーサーに導かれるようにして、プリス・ストラットンを射殺することが出来た。
イジドアは「ピンボケ(知能的に劣るとされた人間)」だが、同時に時間を遡行させる特殊能力をかつて持っていたような、ある種の救世主的な力を秘めている(かもしれない)人物でもある。それは物語の序盤(章番号2)の記述にあるのだが、こんな序盤に書かれているので、かえってこの部分だけ後から付け足したのではないかと思うほどだが、そういうところも含めて、この小説はとにかく混乱していることを隠さない、なりふりかわない必死さに貫かれているという感じがする。
とにかく終盤にきてウィルバー・マーサーはイジドアにもデッカードにも「奇跡」を起こす、かのように見える。彼の導きがなければ、デッカードの仕事は成功しなかったかもしれないし、イジドアは虐待されたはずの蜘蛛を元通りの姿で彼から手渡される。
核戦争後の地球において動物や昆虫は希少であり、現在ならさしずめ家とか車とか、あるいは「戦前」の郷愁をともなった、すでにこの世界からうしなわれた掛け替えのない価値の象徴として存在する。デッカードはレイチェルに、あなたが大事なのはいちばんが山羊、その次に奥さんで、その次に…と揶揄されるが、おそらく人間が人間であることを繋ぎ止めてくれる真なる価値が動物であり、その信頼のもとに精神が築かれ、信仰が可能となり、奥さんや家庭や社会を確認できるのだと思う。
しかしデッカードは精神の安定をじょじょにうしなっていく。彼がアンドロイドを仕留めるたびに、彼はダメージを負っていくようだ。フォークト=カンプフ法検査によって相手がアンドロイドだと判明すれば、デッカードにとって対象は「彼」や「彼女」でなく、ただちに「これ」「それ」になるが、それはおそらく彼に固有の職業意識が、なるべく速やかな意識変更を促すからでもあるだろう。そしてアンドロイドたちは、そんな人間の習性をある程度わかってはいて、その弱みに付け込もうとするだろう。
デッカードを苦しめているものは、アンドロイドの強さでも弱さでもなく、アンドロイドに対して人間である自分がどの立場であると規定すれば良いのかを見失うことから来るものだ。そして同時に、アンドロイドたちが自分のようには、自分がどのような立場であると規定すれば良いのかに苦しんでなく、その内面に自分は映りこまないだろうことを想像することから来るものだ。
デッカードはレイチェルに「感情移入」しており、そのことを自覚している。アンドロイドが人間でない所以、それは「自分らが人間から感情移入されるのを感じる」のではなく、「【何か】が人間から感情移入されるのを感じる」というところにあると言えるだろうか。感情の向けられている先が「自分」だとはわかるが、「この私」ではない、というよりも「この私」が意識されない、ということだろうか。いや「この私」はかろうじてあるが執着が少ない、生への執着が少ないし、実際寿命が数年しかない。だから彼ら彼女らは、基本的には人間と変わらないのだが、その与えられた生の条件ゆえの「性格」を態度に示しているだけなのだろうか。
本来ならば、私が誰かから感情移入されている、それを感じ取ること。それは「愛されていること」「気に掛けられていること」そのような自分を意識すること、つまり自分が、今この私と誰かの感情を受けている私との二つに分かれる、ということだろう。
そもそも感情移入は「力」と言えるのか。それはエネルギーや熱や光のようなものではないし、双方で放出したり受け止めたりするようなものでもない。感情移入とは、あくまでも自分が単独で見るイメージに過ぎないだろう。何かが写っていると信じることのできる鏡を、一人で見ているようなものだろうか。
アンドロイドは人間についてある特定の領域を理解できないのではなくて、むしろとても正確に観察できてしまえるから、信じなくていい。いわば物語を必要としない。そこが人間に似てないのかもしれない。(マーサーが言ってたことも、そういう意味だと思う。)
デッカードは、プリス、そしてベイティー夫妻を殺害することに成功する。ロイ・ベイティーは末期に、妻の死を知って「悲痛なさけびを上げる」。夫はおそらく彼のやりかたで妻を愛していた。そのさけび声は、小説を読み終わってからもしばらく頭のなかに響き続けるかのようだ。あるいは最後のレイチェルの行為、その孤独と無理解の壁。そこに憎しみはあるのか、だとしたら、もしかして憎しみではない感情もありうるのだろうか。不足を感じ、あきたりない思いを抱えるのは、人間ばかりだろうか。キップルが雪のように降り、デッカードはボロボロになり、イジドアに救いはもたらされない。彼らが彼らを、あるいは彼女らを、わかることはない。この小説が、まるでアンドロイドたちを庇うかのように、それをわからせないままに閉じている感じがする。