食感

あんこうとか、たらとか、ああいったゼラチン質が豊富な食材が好きで、冬場にスーパーなどでみかけるとつい買ってしまうのだが、今シーズンはいくらなんでも、あまりにもたくさん、あんこうを食べ過ぎた、と今日あんこうを食べながら思った。そもそも、こんなに頻繁に食べるようなものでは無いと思う。食感が独特だからこそ、稀に食すれば美味しいと思うわけで、この食感に慣れてしまったら、あんこうの意味がないじゃないか。もうこれで最後にしよう、また一年後にしようと思う。

しかしホルモンもそうだし、タコやイカや貝類などの魚介類もそれに類するのかもしれないが、なぜあのような、クニャクニャとした、簡単に噛み切れない、いつまでも咀嚼してないと呑みこめないようなものを、人はことさら食べたくなるのか。食べにくいからこそ、それへの執着が増すということなのか。それともクニャクニャの、不定形の、形の判然としない湿った器官というものに、自分自身の肉体の内側への回帰を促されるような、そんな想像的な郷愁を感じるからか。

内臓といえば開高健「日本三文オペラ」で、アパッチ族の子供が、内臓の干したものだったか焼いたものだったの、かなり大きな塊を、無理して口に入れて数回噛んでから、ほぼそのまま丸呑みにしてしまう場面があった。あまりにも固すぎて、いくら噛んでも意味がないくらいほどの肉塊を、無理やり腹の中におさめてしまい消化されるに任せる、という喰い方である。「食道をつっぱりながらおちてゆくありさまが皮膚の外からありありとわかるような気がした。」とある。

ここを読んだときはさすがに心肺への圧迫感というか、ものが喉に詰まったときのあの苦痛と焦り、発汗をともなうような窒息感というか、自分の消化器系器官に外科的なダメージを受けたみたいなショックを感じて、少しの間ぼんやりしてしまったことがあったが、たしかにそんな危険に近づいてでも食べたいようなおさえがたき欲望を、その手の食材はかきたてるところがある。

そういえば僕はちなみに、スッポンをまだ一度も食べたことがないのだが、今年こそは、食べてみたいけどなあ。