感覚質

トキ・アートスペースで、杉浦大和展を観る。(http://tokiart.life.coocan.jp/2022/221206.html)

ざわざわ、ゆさゆさとした感覚。すべてが未完了の領域にとどまりながら、あらゆる出来事の可能性というか気配のようなものとしてたえず動き回っている。このように、いつまでもずっと未解決で、いつまでも意味に結びつかないままの状態を感じ取っていることの不思議さ。自分がふだんものごとを知覚していることの不思議さ。

記憶は、知覚に入り込んできて、運動記憶による「重ね合わせ」によって、それがタイプ的イメージを呼び起こす。今見たはずのものは、いくつもの、過去のなつかしい、使いふるされた、ありきたりの、かけがえのない、たくさんの思い出を呼び起こし、それらに結びついては、実像を結ぶ前にきえる。

それは紙芝居のようなものではなく、映画のようなものでもなく、すべてが一瞬のうちに起こる。いつまでも待っていてくれるが、それに気づかねばならない。気付けば確実に、なにか起こる。視線を移すごとに起こっては消える。この絵を観ているいま、何度も逡巡し滞留して震えながら、いくつもの記憶が、めまぐるしく消えてはあらわれる。そのことを「いま観ている、この絵は…」と感じている。

絵を観ていて、ざわざわ、ゆさゆさとした(映像的な)「動き」を観ているわけではない。「時間が流れている」とは感じない。おそらく絵とは、流れ以前の感覚的な質を、(画面のどこかを見るたびに)次々と発生させるための仕掛けだ。