さすらい

ザ・シネマメンバースで、ヴィム・ヴェンダース「さすらい」(1976年)を先週一時間観て、今日二時間、最後まで観終わった。しかしやはりこれは、三時間ぶっ通しで見るべきだろうと思った。これはしっかりと三時間かけて、体験する旅だろうと。

一気に観ると、かえって全容がわからなくなる。後半に進むにつれて、前半のエピソードは遠い記憶の向こう側へ後退してしまうし、今観ている出来事や状況が、冒頭でみたはずの遠い記憶とつながっていること自体に、不思議な「非現実感」(映画的現実の崩れ?)をおぼえたりもする。要するにどんな映画だったかが定かでなくなる。しかしそれで良いのだろう。分割して観たり、後戻りして最初の方を観返して、エピソード単体を思い出せたとしても、それはまた別の出来事でしかない。

映写技師ってDJみたいだなと思う。複数の媒体をつないで再生する。機材自体をきちんとメンテナンスして、最良の環境で稼働させる。その技術を売って渡り歩く。でもそんな稼業が、これから先も長いこと続けられるわけではなさそうだ。

主人公の二人は共に、もはや欲望が滅びてしまった人物のようでもある。というかこの映画の描きだす世界が、すでにかつての欲望の大方が滅びてしまった世界のようにも見える。ロードムービーという形式が要請されるのは、そうでなければならないと作家が強く思う理由があるからだろうなと思う。この世界で少なくとも映画は、もう息も絶え絶えの絶滅寸前の状態に見える。たまたま知り合った映画館の女と男は館内で一夜を過ごすが、そこで何かが起こるわけでもない。

欲望の滅びたあとみたいな二人は、それでも一度掴み合いの喧嘩になりかけるし、それまでも何度か仲違いして寝床を別々にしたりする。彼らは過去の残滓を、ひたすら求めて、電話をかけたり古屋敷の縁側に腰掛けたりして、結局は途方に暮れている。怒りや悲しみやイラつきはある。しかしそれらがしっかりと焦点を結ばない。「お前が女とヤッてるところを想像できないな」との言葉に対して「お前がヤッてるところは想像できるよ。絵と音がズレたポルノみたいだ」と返す。たしかに、そのように思える。

映画の終盤で彼らがたまたま辿りついた小さな小屋があって、彼らはそこで一晩を過ごす。そこは先の戦争でアメリカ軍が拠点とした場所らしく、壁いっぱいにギッシリと、いかにもアメリカという感じの落書きが、大量に所狭しと書きこまれている。彼らはロウソクの灯をかざして、それらの落書きひとつひとつを、まるで洞窟内の壁画を鑑賞しているみたいに丹念に見つめ、まるで自分たちが発見した過去の遺産のように、書き付けられているアメリカ的な固有名詞を読み上げる。地面に落ちてる電話線を、小屋の中にあった古い電話機につないで電話をかけてみると、受話器の向こうから声が聴こえる。アメリカに繋がった。と相手に伝える。

本作のロケ地は、東ドイツの国境沿いらしい。ナチスで一旦、息の根が止まって、それが再び息をし始めたのが50年過ぎで、20年余りが過ぎて、再び息が止まりそうになってる。過去の残骸と、だだっ広い地平しか見えない。これから、どんどんつまらなくなっていく予感がする。きっとこれが、70年代なのだなと思う。