囚われの女

ザ・シネマメンバースで、シャンタル・アケルマン「囚われの女」(2000年)を観た。アケルマン監督作で、男性が主人公の作品を観るのは、これがはじめて。そしてアケルマン的な男性は、つねに男性自身の問題の内側でひたすら苦しんだり楽しんだりしてるだけで、その閉鎖された殻の外側へは決して出てこない。なにしろ彼ら男性の欲望は自身の内側でぐるぐると循環するばかりで、それを気にしてあげようにも相手が自らそれを拒むかのような……みたいな感じだろうか。

主人公の男性タニスラス・メラールは、とても裕福そうな家に祖母や家政婦らと暮らしている。彼の悩みの元である女シルビー・テステューを、ストーカーのようにこっそり付け回したりもする。彼女はすでに彼の恋人であり、彼の部屋に居候しているにも関わらずだ。

彼は彼女が眠ってしまうと、ようやく欲望を開放できるようで、横たわる女に自らの身体をこすりつけて快楽に浸る。彼女が日中動き回っているあいだは、もしかすると女友達あるいは関係する誰かと同性愛的関係をもっているのではないかと、ひたすらそのことへの疑いと妄想の虜になっていて、とつぜん思い立って友人たちと一緒の彼女を強引に連れ戻したり、部屋に入ってこいと言ったり出ていけと言ったり、挙句の果てはもう別れましょうと切り出したり…なにしろ支離滅裂でわけがわからない。自分で自分のつくり出した妄想に翻弄され、自身が自身の影におびえているような状態である。

こういう話なので、正直あまり面白くはないのだが、それでも最後まで観ることができたのは、相手役のシルビー・テステューの、被害妄想と疑いの権化みたいになってる男に対する、肯定でも否定でもない不思議な態度が維持されているその点にあるだろう。男の言いたいことや求めるものや不足の要求や欲求の訴えは、もとよりはじめからまともに受け止めることではないと、彼女は思っているかのようにも感じられる。それは「やれやれ、男ってバカだね」といった感じとも違うし、「これはこれで、かわいいところもあるのよ」という感じでもない。「なんだかんだ言ってあのお屋敷に住まうことができるから」みたいな打算があるようでもない。なんというか、彼女自身の欲望や、思惑や、願いみたいなものが、はじめから無くて、彼と彼女が同じ土俵に立ってないというか、どこまで行っても、関係が成立していないかのようなのだ。

そのことが彼女なりの「復讐」だったりとか、その態度が彼を余計にイラつかせるとか、そういうことなら話はわかりやすいのだが、そういうことでもない。すくなくともシルビー・テステューには内面がない…いや内面はあるけど、私の見ている赤と彼女の見ている赤は同じ赤ではない、みたいな意味での「手ごたえのなさ」だけがある感じ。したがって、男と女の対立的な図式が、成り立ちそうで成り立たない。そのような図式ではないものの現われが起こるようにと、それが主にシルビー・テステューの側に託されている感じがする。

最後の場面は、事故なのか自殺なのか他殺なのか…それはわからないが、それでもやはり彼女は、そのことを彼の考える彼女のようには考えないのだろう。

実在する彼女がいて、彼の中に模造される彼女がいる。彼は実在と模造との同一性にひたすらこだわる、ということなのだと思う。ところが、その比較さえ無意味になる。タニスラス・メラールの手元には、なにもなくなる。あるいは最初から何もなかった。

いや、だから女の立場から見て、それはどうなのか…と考えたくなるのは、本作がアケルマンの作品であることを事前に知っているからなのだが‥‥。彼女の「本当のこと」を、本作の作り手は知っているのではないかと、つい思いたくなるからだが。しかし、それも妙な話であるだろう。