ことの次第

ザ・シネマメンバースで、ヴィム・ヴェンダース「ことの次第」を観る。すばらしい。

資金もフィルムも無くなってしまい、撮影を中断せざるを得なくなった映画制作スタッフと役者たちがいる。彼らはポルトガルの海辺に建つホテルでの待機を余儀なくされる。事態を責任を感じた監督は彼らに話しかけるが、彼らはその言葉をまともに受け止めようとはしない。監督は監督の、奥さんは奥さんの、役者は役者の、脚本家は脚本家の、それぞれの考えや悩みがあり、現状に対する不満あるいはあきらめ、あるいは妙な開き直り、またはその場だけの楽しみや大きな不安がある。

食事の時間になれば各人が二人掛けのテーブルにすわり、それぞれ食事をしながらめいめいが話をし、そのあとの長い夜の時間を、部屋に戻った彼らはそれぞれひとりで耐え忍ぶかのように、あるいはその場の即席カップルとして、思い思いに過ごす。

この停滞感、鬱屈感、手も足も出ない、どうしようもない感じ、この場所を認めてこの時間を正面から受け止めるしかない感じ。しかしなぜこれほどまでに、本作のホテルに滞在してる彼らの時間は魅力的なのか。二人の子役の女の子たちの、まるで半分人間の世界から脱してるかのような存在感。長く貼られた洗濯紐にいいかげんに干される洗濯物たち。半壊のテラスに押し寄せる波。ある袋小路な状況がそのままこれほど天国のようならば、ひたすら受け身の生でいい、状況に翻弄されるがまま、最初の条件に従うがままで人生でべつに問題ないじゃないかと、そんな大げさなことさえ思い浮かべる。たとえばフェリーニの映画のように登場人物たちがそれぞれバラバラに、彼ら自身の人生を味わい、よろこび、あるいは儚んでいる。それを遠くから見下ろしてる。それにしてもあのホテルは、三好銀の漫画に描かれた世界の空間を少しだけ思わせる。

舞台がポルトガルからロスアンジェルスに移ることで、映画そのものもガラッと変わる。事の次第は、出てくる登場人物たちの表情と態度だけで語られる。あるいはなにも語られない。やれやれ…と苦笑を浮かべるしかないのは監督役のパトリック・ボーショー。雲隠れしたプロデューサーを見つけ出してから、本作に真の憂鬱さが立ち込め始める。半笑いと怒号と曖昧なごまかしだけのやり取りが重なり、もはや手遅れの、あとは終局を待つだけの、絶望の淵にいる相手と映画監督は、キャンピングカーの後部座席にだらりと身を横たえながら、まるで旧友同士であるかのように朝までの時間を過ごす。

ヴェンダース作品に出てくる映画監督あるいは作家は、誰もが情熱的というか、クールだけど仕事への思いは熱い。その思いを作品内でつい口にしたくなる。誰もまともに聞いてくれないとしても、映画とは何か、何でなければならないかを、確かめるかのように口にしないではいられない。滑稽に見えようとも、まるで拳銃のようにカメラを持って相手を探さずにはいられない。