読書

たとえば旅行。旅行はふつう、いつかは帰宅するものだ。帰宅までが旅行。でも結果的に、帰宅しない旅行もあるだろう。そういう登場人物の行動が描かれた映画を、観たことがある。それは結果として旅行とは言えないかもしれないが、当初は旅行だったのかもしれない。なにしろとにかく、旅に出てそれきり、帰ってこないというのはありうる。

たとえば入院。これも同様だろう。最後まで退院できないことはありうる。退院できたとしても、入院前の状態に戻ることができないのはありうる。それまでの自分に戻ってこれない可能性は充分にありうる。

たとえば読書。人はいかなる環境、いかなる条件下で、もっとも読書がはかどるのだろうか。そのことを考えていたら、前述のようなケースを思い浮かべてしまった。なぜかのか、よくわからない。戻ってこれないとわかって、それでも人は、本を読むものだろうか。いや、それは読む、そう思っていて、むしろ熱烈に読めるかもしれなくて、それは未読のものを読むことよりも、現時点での、中途半端な不安や気がかりをきちんと整理して片づけたいという思いに対して、ひとつの強制的なリミッターを掛けてくれるから、ということでもある。わからなさへのあきらめが強制される、そのことへの淡い期待でもある。

しかしそれが本末転倒であることもわかる。自分がつまり何を確認したいのかを知りたい、それを見きわめたいからこそ、そんな倒錯に陥るのだろうと思う。