大岡昇平の小説がもつ文体そのものの魅力。癖や歪みもない、冗長でも簡素でもない、シンプルでロジカルで過不足なく、感情は適切に抑制されていて、観察の位置取りが適切で、認識の的確さが一々説得的で、標準的で汎用的で、誰もが納得させられる論理的な積み重ね、きちんと構成された論旨、それが結論まで運ばれることの心地よさ。かと言ってその構築感がことさらに強調されるわけでもない、硬さの内側には柔らかくリラックスした感じ、ほんのわずかな諧謔と可笑しみと、自己への諦めと冷笑の気分さえ漂っているかのようだ。冷静な判断力と、感情の揺れや不平や不満や羨望や嫉妬の心、それらをもあわせ持ったどこにでもいるスタンダードな人間、非常事態であれ平時であれ、感情バランスの最も適切な位置へのチューニングが常に為されている。いつも感情が平穏という意味ではなく、どのような窮地においても、どのような緊張状態にあっても、死を覚悟せざるを得ない状況であっても、その非常事態にあることを適切に報告することのできる言葉が用意され操作されるということ、パニックを言葉としてよりよく表現しうるということ。そのようなパーソナリティーとしての小説的人物。そのような人物を造形すること、それは書く技術力によってでもあり、人としての自己洞察力や認識力によってでもあるだろう。
登場人物に感情移入できるというよりも、その語りを信頼できるということ。小説の(「手」ではなく)「眼」として、全幅の信頼をおけると読者に感じさせる。小説が信頼されるための、人徳ならぬ文徳というものがあるとしたら、それが文体だろう。
文体なんてどうでも良いから、書かれたものが読まれて届く、それに至る軋轢や干渉にあらがうのが、読むということであり、それこそが散文というものかもしれないが、少なくとも大岡昇平の文体は、語られている意味内容以前のところにある身振りと余韻、ただそれだけで最初から読者を惹きつけ、安定させるように思える。まず「人」として信頼させるところから始まっているように思われる。
「人」として信頼できない文を、面白いと思って読むことはできるのか、それとも文を面白いと思うことは、つまりその「人」の面白さを発見するということなのか(「人」に紐付かない言葉がありうるのか)。