Ryuichi Sakamoto: CODA

NHKの放送を録画して、スティーブン・ノムラ・シブル「Ryuichi Sakamoto: CODA」(2017年)を観た。

坂本龍一が、タルコフスキーの「惑星ソラリス」の映像に見入っている。そのイメージと音に強く魅了されているのがわかる。タルコフスキーに使われてしまったバッハの曲は使えない、それはやはり悔しいし、やっぱりそういう曲を、自分で書かなきゃダメだ…と、語っている。

主人公や周囲の景色や前景のテーブルや置かれた茶碗に、雨の飛沫が激しく躍って、水の音が世界全体をつつむみたいな、いかにもタルコフスキーな場面を観て、タルコフスキー映画作家だけど、音楽家でもある、と坂本龍一は言う。

この時期の坂本龍一にとって、フィールド・レコーディングは仕事の中心であったのだろう。森の中、家のベランダ、東北被災地、福島、果ては北極圏まで足を運ぶ。ことあるごとに自然の音にマイクを向ける、あるいはシンバル、銅鑼、陶器、さまざまな物質を叩いたり弓で弾いて、じっと耳を澄ます。音が立ち上がり、減衰し、消えていく。それを最後まで聴き取る。

そのような仕草の延長におそらく当時の坂本龍一の仕事、「アウト・オブ・ノイズ」(2009年)とか、「async」(2017年)、そして「12」(2023年)はあるだろう。キャリア後期と言って良い時期にこれらの作品を生み出した作家が、当時どんな様子だったかについて、本作はそれをかなり正確に捉えていると言えるだろう。

あとは個人的な感想に過ぎないが、それにしても坂本龍一の音楽が僕に感じさせる、ある不思議な引っ掛かり、あるかすかな疑問のようなものはいったい何か。僕はあなたの何が気に入らないのか。音に耳を澄ませることが、どこかその音そのものと、耳とのあいだに、薄皮が一枚挟まっているかのように、それは決して触る事のできない幻想(幻聴)のように、感じられもする。それが触れられないものであることが、はじめからわかっているのに、あえてそうしているのではないかという感じがする。

ちょっと意味がわからないことを書いてるとは思うが、坂本龍一という人の仕事のどれもが、何か不思議な上滑り感をもっている気が、個人的にはしている。とくに「ほんとうに純粋な音」(北極圏の水音とか、津波で損傷したピアノの調律とか)を、言い始めたあたりから、どうもそのアプローチでは、何か危うくないか…と感じさせるのだ。それだと出発点からゴールまで、既知の取り組みになってしまわないか、と。

いや、最終的に「async」は素晴らしい(非・予定調和的な)作品なのだから、べつにそれで良いのだけど、それでも嬉しそうにモノや自然に対してマイクを向けて録音してる作家を見ていると、うーんこれで良いのだろうかと思わなくはない。そもそもタルコフスキーに強く魅了され、あのような「音」の音楽を…と考える時点で、もうそれが「答え」じゃないですか…と言いたくなるところもある。ほんとうに答えに辿りつけないところへは、この作家は自らを運ぼうとしてないんじゃないかと。

でも、これは批判だろうか。もとよりそのような音楽ではなくて、「async」がそうであるように、そのようにあるのだから、それで良いではないか。

そして「キャズム」(2004年)を聴き、「アウト・オブ・ノイズ」(2009年)を聴く。そのようであることを聴いた。