四時過ぎの船

昨年の群像(2017年6月)に掲載の、古川真人「四時過ぎの船」を読んだ。祖母の佐恵子、佐恵子の娘の美穂、美穂の長男の浩と稔の三世代が出てくる。浩は視覚障害者のシステムエンジニアで、稔は兄の介護などしつつ三十歳で無職。ちなみに、そうか僕はたぶん母親の美穂と世代的にはいちばん近いか…と思う。おもに稔の視点で作品が進むが、祖母の佐恵子の視点も所々出てくる。その佐恵子は死後二年が経過している。すでに死んでいるはずの佐恵子の、かつてこの町に嫁いできたばかりの頃や生活の様々な思い出が思い出される。思い出される(回想)というよりも、その場面そのものになる。母親の美穂は養子なので佐恵子と稔は直接血のつながりはないが、この隔世で生じる不思議な記憶の並走はこの作者ならではという感じだ。


痴呆の症状がすすむ佐恵子の記憶は佐恵子自身の内に何度でもよみがえる、そして何度でも忘れる。ことあるごとに意味のつながりが無くなって浮遊しては消える。ふいに過去の時代に戻るというか、それが現在になる、亡き夫とのやり取り、こういうのに弱い。全体で1から8までの節にわかれているうちの3がすごくいい。しみじみと泣ける。老齢の人の経験、見たはずの景色、音や匂い、それらの記憶。前作「縫わんばならん」を読んだときにも、目に映るその土地の景色を、なぜこれほど生き生きと描きだせるのかと驚いたけど、しかもそれを、自分や自分を投影しやすい立場や年齢の登場人物からの視点としてではなく老齢の登場人物の視点で描く。古川真人という作者自身はまだ若い人だから、老人の肉体感覚や記憶について自己経験として語れるわけではないのにだ。老人なら如何にもこんな感じで若者なら如何にもこうとかの雑な前提ではなくて、誰に替わってではなくそのものとしての生々しく強い言葉として書く。