エレクトリック

千葉雅也「エレクトリック」を読んだ。面白かった。「それは誠」もそうだけど、みんな頭のいい高校生ばっかりだな。

家があって、家族があって、父親がいる。権力者であると同時に、主人公である長男、達也の父であり、友人でもある。父であり友人であり権力者。そのような存在として、息子の期待を背負った者。息子の幻想の対象。

父の仕事が、家を支えている。先行きの不安もあるようだが事業は今のところ順調で、自宅は豆腐のような白い箱型のモダンなデザインに建て直された。社長室の父、スタジオと呼ばれる作業部屋の父。そこにはウエスタンエレクトリックのヴィンテージ・アンプが二台、オーバーホール中である。会社の主要取引先であるスーパーマーケット社長との友好関係維持のため、完了後にそのアンプは破格の値段で社長へ譲渡されるだろう。

達也にとって父は、尊敬できる友人でもあり、自分よりも知識と経験を持っていて、経済力があって、さまざまな未知の事象、あたらしい技術、人間関係を、達也にも体験させてくれる。自動車の助手席に乗った達也は、もっとも信頼に足る、しかも気の置けない父のパートナーであり、達也は父の仕事先の様々な場所に同伴して、その経験を活かし学ぶことを、父から期待されてもいる。

一九九五年が舞台の話である。震災があり、オウム事件があり、Windows95の発売があり、エヴァンゲリオンの放送が開始された年である。

母の、茹で卵のように滑らかな、つるんとした顔がある。その顔と態度から読み取れる、母の怒りと不機嫌さがあり、じつはそれこそが、家の秩序を維持しているのを達也はどこかで感じている。この家では母こそが秩序で、しかし達也にとって、父は実の権力者であってほしい、だから父が母を制御すべく、子供たちに指図をするとき、ママを怒らせないように謝れと、父が子供たちに促すとき、どこかわりきれないものを感じもする。

達也の父親が、達也の友人でもあるのと同じく、父親の友人の野村さんもまた、そんな未知なる何かを背後にかかえた、達也の友人の友人である。しかし野村さんは不可解な人で、この人物は父と同級生だが、父以上に、これまでずっと好き勝手に生きてきて、一般的な意味での社会常識を感じさせない、自分の老父を顎で使い、ぬるいコーヒーを煎れ直させ、ふいに家を空けて、何日も姿を見せなくなって、たまに訪ねてくる赤い服の女もこの人物も、いったいどういう人間なのか、仕事してるのかしてないのか、自由業なのか自営業なのか、アンプのオーバーホールは父が彼に委託したので、まるで植物園のような彼の仕事部屋で、アンプは今も作業中状態なのだけど、いったいいつ終わって納品されるのかもわからない、どうせ言っても聞かないからと、達也の父親は半ばあきらめ気味だ。

達也の友人K、高校の同級生で、達也と彼は一緒に音楽を作ってる。と言っても、自分が作業してる間、彼はずっとマンガを読んでる。彼がマッキントッシュに触ってる間、達也はひたすらそれが終わるのを待つだけだ。しかし男同士なんてそんなものだ。Kはわかってるヤツで、カッコつけない方がカッコいい、そのニュアンスをよく理解している。

達也の妹が撮った写真の感想を語る父親に、あるとき達也は猛然と反論する。父親に異論をぶつける、そのときに感じた、強い攻撃意欲。いずれ達也の頼もしい友人もまた、何か不足な、物足りないところのある、とりたてて尊重するほどでもないただの友人、いや、タダの父親に、成り下がっていくのだろうか。つまりそういうものだろうか。

こんな一九九五年もあったのだろうなと思う。宇都宮という場所がまるで外国のようにも感じる。それはその場所がというよりも、主人公の彼がある意味で、外国人のようだからかもしれない。

そこでは主人公の高校生活と、彼自身の時間が流れ、同時に達也の父親やその友人たちの、まるで彼ら同士がもてあます時間を潰し合ってるかのような流れがある。そのなかでも秩序は維持され、事業経営も維持され、時間は動いていた。それがまるで、仮定した自分自身の(達也の、あるいは読者の)過去であったかのように、その時間を自らの事として思い出すかのようだ。

もとよりそこには、何の手応えもない。オーディオ趣味なんて怪しいものだ。電気回路の役割はオシロスコ―プの波形としてあらわれるだけで、それ自体としては目に見えないし手にも触れられない、押したくなるボタンがいっぱい並んでるけど、きっと肝心の対象には指が届かないのだろう。しかしそんな時間があったのは確かだ。一九九五年のことだ。

モデムで接続するインターネットの世界から、新しい何かの扉が開かれることになる、その予感だけはある。やがて、何もかもが変わっていきますよ、とスーパーマーケットの社員は言う。

たしかに、まだ雑居ビルに最低限の機器と設備を持ち込んだだけの、ひどく安普請な、薄暗い催事場みたいなのが、90年代のインターネットカフェだったな…と、そんな記憶がよみがえる。あの頃の暗いビルの一室の片隅からネットに接続して、よくわからないチャットに匿名の名を連ねることが、新しさの予感、いや予感ですらない、意味不明な、得体のしれぬ不透明さだったなと。