Amazon Primeでケリー・ライカート「ミークス・カットオフ」(2010年)を観る。最高だった。見事だった。なんというモッタリ、モタモタした展開であり動きだろうか。ロード・ムーヴィーであるなら腹を括ってここまでやらなきゃということか。徹底した引きのショットの連続。幾日かけて移動しても、まさに山一つあらわれないような荒涼とした地平を荷馬車が行く。馬上の男、荷馬車を引く男、黙って後をついていく女。空と地面にくっきりと食い込むかのような、それらの人々の輪郭線。カメラが捉えた絵の強さにただただ圧倒される感じ。これはアメリカで撮影されたのだろうか。アメリカには未だこんな景色があるのだろうか。

映画は、川渡りの場面からはじまる。男たちが、馬が、荷馬車が、女たちが、それぞれほとんど胸くらいまで水に浸かりながら川を渡る。その旅が過酷極まりないものであることはすぐに予感させられるのだが、彼らや彼女らをこの後苦しめるものが、ほかならぬ水の欠乏であることを思うと、このオープニングは何とも皮肉というか、作り手の底意地の悪ささえ感じさせる。

十九世紀のオレゴン州が舞台で、移民の三家族が案内人にミークという男を雇う。彼を先導として一団の荷馬車は進むが、日程を大幅に越えたのにまったく目的地に到達できない。そのうち水が枯渇してきて、また先住民による襲撃の不安にも苛まれ、一同は次第に切迫的な状況に追い詰められていく。

まずミークという男、こいつは信用できるのか否か。何か企んでるのかそうでもないのか。もしかすると我々を陥れようとしてるのではないか。疑心暗鬼がじょじょに広がる。ミークはよく喋るやつだ。自分がこの地で如何にさまざまな経験を積んできたか、目指す方向にどれほど強く確信をもっているか、歩く足先からどれほど多くの情報を感じ取っているか、目指す先は繁栄の地で一攫千金のチャンスに満ちた天国であることや、また一帯に暮らす先住民たちが如何に残酷で情け容赦のない、西洋的な基準や倫理をもちあわせない野蛮きわまりない存在であることか、云々…。調子良く滔々と語ってる。

それは、ミークという男を頼りにするしかない、ここで信頼に足るのは彼しかいないと、一同にそれ以外の選択肢をあきらめさせる言葉でもあり、そうやって彼を信じることで、かろうじて得られる安心感もあるだろう。どれほど根拠がなくても、自信たっぷりに訳知り顔に語られる言葉それ自体には、すがりたくなる何かがある。これだけ言うのだから信用したい、余計なことを考えたくないという思いもある。

人が無根拠に翻弄されるのは、自信たっぷりな言葉だけではない。たとえば意味不明な絵文字や記号、先住民が壁や岩に刻み付けるそれらは、それを書きつけた先住民だけにわかるものであり、一同にとってはまったく意味不明であるがゆえに、それが自分らを陥れる脅威、我々を滅ぼそうとする動きの予兆のようにも感じられ、悪い兆候にしか見えなくなりもする。先住民族の野蛮さや残虐さを再三強調したがるミークの言葉は、その恐怖や不安を後押しするだろう。

一団は道中、ひとりの先住民の男を捕獲することになる。縄で縛りつけた先住民の男を前に一同は彼の処遇を話し合う。即座に殺すべきというミークらの意見に対して、この男に水の在り処を訪ねる努力をすべきだという意見もあり、後者を強く推して押し切ったのがテスロー夫人だ。彼女は男に水や食料を与え、破れた履物を縫合してやり、いわば恩義を売り、貸借の贈与関係を築き、返礼として自分らが何を求めているかを、何とか相手にわからせようとする。先住民の男はそんな彼女をただ見つめて、意味不明な言葉をしゃべるばかりだ。その眼の奥から、何らかの意志を読み取るのは到底できないように見える。(荷馬車を引くロバの目、馬の目とくらべても…!)

テスロー夫人の行動が立派だなんて誰にも言わせない。彼女はべつに人道主義でも博愛主義でもない。そんなことを称賛できる立場の人間はどこにもいない。食物も水も乏しくなれば、神様のお祈りもおざなりになってくる。何が真で何が正かはまったく示されない。テスロー夫人はことさらミークを嫌っているから、ひたすら彼の意見に反対してるだけかもしれない。彼女の思惑と戦略が効果を上げるかどうかもわからない。いずれにせよ誰も正しい選択肢を知らない。とにかく男の後に付き従い、一団は進む。

ミークはテスロー夫人に話しかける。あんたは俺が嫌いか?テスロー夫人は、あなたは女をわかってないのね、と返す。ミークはそれについて男と女との違いの自説を述べる。曰く女は、混沌から創造し、男は破壊を求めるもの。どうだ?間違ってると思うなら言ってくれ。テスロー夫人はそれを冷笑でやり過ごす。

彼女はおそらくミーク的なものに対して嫌悪を感じていて、うんざり、辟易していて、それを隠して誤魔化すことにもすでに疲れている。ここにかすかな、わかりやすいジェンダー問題が示されるかのようだが、この映画はその後、そんなに生易しい雑な議論のネタみたいなレベルにはまったく落ち着いてない。

とにかく、そもそも先住民の男が絶望的なまでに頼りないのだ。頼りないというより、彼がこちらの要望や思いを理解しているのか、それを受けて彼が何を考えているのか、こうして一団を先導していることを、どう思っていて何を企んでいるのか、あるいは何も考えていないのか、まったくわからないのだ。男の表情や眼は、何も語らない。言葉を話し、歌さえ歌うが、いずれもまったく意味不明である。

これぞまさしく、教えること、伝わることの絶対的な不可能性であり、意味の不通、わかるとわからないの境界線を引くことさえ出来ない完全な無根拠である。その無意味さのなかに根拠を見出すために、男女差だの西洋の歴史だのが引っ張り出されるのかもしれないが、そんなものは何の薬にもならない。

物語の終盤、一団はじょじょに追い詰められていく。先住民の男たちから殺される未来を完全に信じ込んでしまった別の婦人は、悲観に頭の中を支配され、ほとんど狂気の態であらゆるものに悪しき兆候を見ようとする。それはもはや自分の見たいものしか見ることの出来ない態度であるけど、でもそれが正しい恐れかたの可能性だって十分にある。一団はこの後、ほんとうに殺されるのかもしれないのだ。

テスロー夫人はそれでも先住民の男についていくことを主張する。ミークに銃口さえ向け、自分の主張を押し通す。なおも云う。これは賭けではない、賭け事は、あなたのような男がやることだと。ミークは彼女に言い返す。あんたがやろうとしてることが、賭けなんだよ、と。

やがて彼らは、相変わらずどこまでも続くと思われた荒野の先に鄙びた一本の樹木を見出すことになる。それは近辺に水の存在を示す証しでもあるだろう。ただし先住民の男の意図は依然としてわからない。いや、わからないのは私たちの、この不安の正体ではないのか。わたしたちの期待はどこにあるのか。不安の根拠は何か。生命を維持させるために、最善の行動を取らねばならない、それだけが確かだ。ミークはついに、テスロー夫人に言う、あんたに従うと。これは敗北宣言ではない。勝敗などとは別次元の、狂気にも似た選択の機会だけが、ついに委ねられた。もはや誰もが等価、誰もが等しく死の機会を分担している。

それにしても、かの男の後ろ姿に我々は何を見るのか。誰かに頼るということ、誰かに導いてもらうというとき、そんな私たちの心の中にある、剥き出しの実体を見るかのようだ。おそらく神様よりも、手に取るようにわかりやすくて、しかしだからこそ、どこまでも無意味で非互換的な他者の姿を。