絵を描くとき、たとえば薄く細い線を無数に重ねていくようなとき。それをやっている真っ最中は、描き手はただの行為機械みたいなものだ。その行為自体にはそれ以上の意味がともなわないことをわかっているので、ひたすら無機的にその行為を続ける。そこに意味がともなうと信じることも出来るし、それで結果が変わることもあるだろうが、どちらが正しいとかはなくて、信じるも信じないも任意である。

ただしその行為が終わったあとの結果を夢見てはいる。ただの行為機械は、頭の中にひたすら近い将来を思い描いてる。自分の手の行為と、頭のなかの想像が、近い将来に一致することを信じている。あるいは信じないふりをすることもあるが、やはり信じている。

作り手が夢見がちな性格になるのは、行為機械と思い描く人との二重性を生きざるを得ないからだ。この二重性、明確に違う二つの時間の非連続性を、所与のものとして生きるしかない。

Aを思い浮かべながらBを作ることの過酷さに耐えられない人もいる。しかしBなくしてはAの夢想が成り立たない。またBを認めたくないわけではなく、BとAとが時間を経て立場がひっくり返ったりもする。それらの経験は歓びとして記憶される。