小林信彦「小説世界のロビンソン」第三十二章『「瘋癲老人日記」の面白さ』。一九六二年、谷崎潤一郎七十五歳のときに発表されたそれを小林自身読んだときの衝撃が、たった今体験した出来事のように書かれている。それと同時に当時の文芸誌の創作合評における、福永武彦三島由紀夫の、本作に対する絶賛の言葉を所々に挟むことで、その衝撃が自分だけの興奮ではなく当時の大御所から一般人まで、およそ文学を愛好するあらゆる人々を震撼させた、それをあたかも現場からの実況中継のように伝えている。

小林信彦は「上手い」のでいかにも手慣れたベテランの感じだけど、誰であれ、やり方はどうであれ、ある小説がいかにすごいかを、情熱を込めて語る文章はおもしろい。この興奮を他人に伝えずにおくものか、両肩をぐいぐい揺さぶってわからせてやろうか、そんな無茶な力みがある文章でも、それはそれでやはり面白い。

小説が人をそこまで興奮させる、この興奮を言葉にしてとにかく伝えたいから、計画も見積もりもなくいきなりそれを書き付けてみる。何を書いて、何を腑に落とし込みたいのかさえ不明なまま、とにかくこの興奮を書き留めなければとの思いだけで書く。その情熱が行き過ぎれば、何が何やらよくわからないものにもなるかもしれないが、そのようなグシャグシャも含めて、これは小説に限らないけど、自分がそれを体験した事実、その楽しみ方というか、享楽の仕方、感受の度合、インパクトの深さ、それがひどく混乱したものであっても、それごと相手にしかと伝わるようなものであれば、それは既に面白い。

逆に言えば、ふだん我々の内側は、なんともお行儀のよい整然とした内面を律しつつ、感じ方や受け取り方に一々不自由し、楽しさを自らの内側に解放できないことに戸惑い、後ろめたさを感じ、期待と表裏一体になった未知を恐れ、怯えて、あるいは怠惰に甘んじ、自己保身の頑なさを捨てることができない。観念にしばられて、歓びらしさの輪郭線だけをなぞって、それを体験だと思い込む。そういうのにどれだけ甘んじていることか。自分の想像を大きく越えた身振りや手振りや身体の動かし方を見せてくれること、自分に対する想像の幅が刷新され、楽しむことさえお手本を必要としていたのだと気付かせてくれる、そういうのが面白い。