NHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀ジブリ宮崎駿の2399日』」を見た。宮崎駿高畑勲に対してこれほどまでに強く強迫観念のような思いを抱えていたのかと。使い慣れてない言葉を使ってアレだけど、宮崎駿にとって高畑勲は、父であり大他者であり強力な抑圧でもあった。突出した才能をもつ人間ひとりが仕事を進める上で、これほどまでに対象へ転移し、ぐるぐると堂々巡りをし、自らの感情に翻弄されていたとは。

しかしそれがそのまま仕事の動機にもなり、それこそがあらゆる困難を越えて仕事をやり遂げることの意味でもあり目的でもある、そのようなひとりの作家の内面を垣間見た感じがした。そして、これは高畑勲の死によって解除されるような類のことでもなくて、実父の死とか、上司の死とか、カリスマとか、社会的な抑圧者の死では、けっして解決(解放)されない呪縛であって、当事者にとって、いつまでも、死ぬまで、頭の上に重く在り続けるのだ。きっと永遠に、その枠内にとらわれたままなのだろう。というか、それなしでは自己が成り立たない、支えられないのか。

しかし宮崎駿をもってしてもこうなのか…と、暗澹たる思い。仕方のないこととはいえ、人間とは何と不自由なものなのか。