スピード

クロード・シモン「フランドルへの道」。自らの陣営が、敗残した側であることを自覚しつつ、戦闘が終わりかけたときの状況。この、得体のしれない吸引力は何だろうか。この不安感と恐怖感から身を引き離したいという感情と、この先を食い入るように見ていたいという感情が混ざり合う。中国戦線を視察した小林秀雄満州の印象」にある次の一節を思い出す。

雪の斜面でスキイをして遊んでゐる一団がある。あれも兵隊さんぢゃないかと思った。ブラゴヴェシュチェンスクの街は下流の方でよく見えぬ。こちらの岸には凍り附いた材木を剥がしては、馬に曳かせて運搬するので、労働者が群がってゐる。見たところ表面はいかにも平和な国境風景だ。だが果して表面は、だらうか。そんな事はあるまい。スキイをしてゐる者も材木を運んでゐる者も、たった今は心の底から平和に違ひない。平和とは休戦期の異名だ、と誰かが言つた。それは本当の様だが嘘である。頭の中で平和と戦とを比較してみた人の理屈である。だが実際の平和と実際の戦とは断然とした区別があるのではあるまいか。人間は戦ふまで戦といふものがどういふものか知らぬ。どんなに戦の予想に膨らんだ人もほんたうに剣をとって戦ふまでは平和たらざるを得ない。人間は戦ふ直前に何か知らない一線を飛び越える。(「満州の印象」)

「ほんたうに剣をとって戦ふ」がはじまったら、それはもはや戦だが、だったら、それが終わるときはどんなだろうか。この「落ちていくスピード」の感触とは…。

そうなんだ。きっとな。それはわかってるんだ。そうなのさ。おそらくなにもその戦争、ただ戦いに負けたということだけのせいじゃなかったんだな、彼が戦場で見たこと、集団的な恐怖、卑劣な行為、武器をほうりだし、ごたぶんにもれず、自分たちの恐怖を正当化するために裏切り者とわめき、上官をののしる敗残兵たちとか、だんだんと銃声がまばらになり、それからぽつんぽつんと、脈絡も、真剣味もなくなり、戦闘がしだいに根気を使いはたし、一日の終わりのけだるさのなかでひとりでに息絶えていったとか、そんなことのためばかりとはいえないんだ。あれはおれたちも経験ずみの、よく知ってることだな、あのだんだんと落ちてゆくスピード、あの斬進的な静止ってやつは。村祭りの福引き屋の抽選器(外側に指針のついた車輪の形をしている)とおんなじで、車止めのぴかぴか光る頭にぶつかる金属の(あるいは鯨骨の)指針のかたかたという忙しい音がいわば分解し、ただひとつの連続的な騒々しい音としか聞こえなかった衝突音がばらばらに、はなればなれになり、まばらになってゆき、あの最後の数時間というものは、戦闘はただはずみのついた惰性だけでつづけられるみたいで、スピードが落ち、またもりあがり、立ち消えになり、いきなりとんでもないめちゃくちゃな勢いでまた火がつくかと思うとふたたびすっと勢いが衰え、そうこうしている間にまた小鳥のさえずりが耳にはいるようになり、ふいに小鳥たちは決してさえずることをやめなかったのだ、風だって木の枝をゆすぶることをやめなかった、雲も空も流れることをやめなかったのだということに気がつき、---というわけでまだ、ときどき、たそがれの平和のなかでここかしこに銃声が聞こえるのだが、いまはそれも場ちがいな、ばかばかしい音としか聞こえず、後衛とそれを追撃する敵とのおくればせの子競合いかなにかだが、その敵にしてもきっと正確な意味でのスペイン軍じゃなくて(後略) (「フランドルへの道」209~210頁)