笹野真「手のひらたちの蜂起/法規」が面白い。読んでいる間、何か不思議なムズムズ感があり、何事かの成り立ち、現実的な気配の漂いがあり、何事か存在感の手応えが感じられる過程を味わうのが楽しい。

以下は自分なりの自分が、おそらくそのように読みたかった何かを示そうとする試みに過ぎないけど、この面白さがどんな風に構成されているのかと言えば、まずこの(これから生み出されようとしている)場には、ある法則性、規律・規則があらかじめ成立していて、この詩的な主体はそのアルゴリズムの内訳を探っているというか、何を与えると何が返ってくるのかを一つ一つ丁寧に検証して並べて吟味しているのだろうと。

このことでこの詩的な主体は、自分の知覚と身体性の、場における位置づけをはっきりさせたくて、その原理や仕組みを理解したくて、このあとできるだけこの私あるいは他者的身体を、きちんと捉えて使えるようにしたい、もっと上手く簡単に説明できる可能性を探ろうとしている。じつは意外と、できるだけシンプルな結論を目指している。

だから仮に提示されるのはまず地面と穴、円弧や方面の幾何的関係性、弧を描くはずの予測、跳ね橋や小屋の想定させる空間性と角度の仮置きとなる。

しかし左右や表裏の位置付けは揺らいでいるからそのままでは信頼できない。雨のように雨が、足の上を足が歩くような、ノックしたところがドアであるような、リンゴとnotリンゴ(無さの在る)の定義付けの揺らぎ、命題的不安を抱え、反時計回りの生じる不安定さを抱えながら、とにかく水平を計画しなければならない。

ならばいつからそこにいたのか知らないけど、動物たち、彼らに目を向けてみたい。猫はいつからいたのか。雲が食事を遅らせると言うけど、雲とは何だろう。雲?猫ではなくて?食事と雲。手紙は、食べて良いと許可を与えるのも雲なのか。犬、鳩、猫、あと知らない人から来た手紙を食べるなら、それはヤギさんでもあるだろう。そう思ったら次頁に出てくる、かわいそうなぞうさん、犬の落下、「たちずさんで」いるなら、もしかして、こうのとり

横臥した存在、仰向けになっている人物のイメージを、僕は思い浮かべている。天井と背中が示されるから。で、水平を計画したくて、そこから法規の根拠をはじめたい、方円の手立てをつかみたい。そこがスタート地点なんじゃないかと、仮に決めて進んでいる。

そのうえで、手のひらへの疑い、裏切られる何か。やはりそもそも、与えられた結果によって、お前はお前の属性を知ったのだから、そのことにできるだけ謙虚であれと。彼は自分自身に言い聞かせている。それが猫のためでもあるのじゃないかと。どんな落下も重力を保証しないのだから。足音はたどる道を説明しないのだから。

きちんとわかるべきなのだ。手足を投擲したくなるのだとしたら、それは足で足の上を歩くからだ。猫に怒られるなと、猫がふくらんでしまわないように、と。猫なんだな、と。