渡り鳥には、その生涯のほとんどの時間、空を飛び続けるものがいる。そんな彼らにとって、飛行している状態こそが「我あり」なのだ。彼らにとって地上は「死」で、だから彼らは生涯をかけて、一直線に死へと向かい海を渡る。ただし鳥は地上に子孫を残すのだから、地上は死であり、また未生の生が準備される場所でもある。

身体の力を抜いてしまっては、飛行は成り立たない。常にみずからの四肢へ角度をあたえ、外への抵抗をうみだしている。与えた力に対して、戻ってくるその感覚こそ「私」である。

彼らは飛びながら眠るのだ。眠りでさえ、おそらくは夢さえ「私」の内側に生じる。その夢にも、もちろん力は作用している。かりに彼らが自らの死を、夢見ることがあったとしてもだ。

彼らもいつかは力尽き、落下することがあるだろう。そうであっても、それは彼らの死ではない。鳥は「私の死」を知ることはない。私に戻ってくるはずの感覚が消える、あるいは外のすべてが、私を突き破ってなだれ込んでくる、その直前までを感じ取っている。その先は、私にも誰にもわからない。