何らかの情報開示を準備している、ある集団がいました。…んで、その集団から話を聞き取りして、上手い事、要件として纏めてフィードバックしてあげてニーズを再認識させ、イカシタ提案に拠って戦略を明確化させ、実際の媒体へと具現化させていってあげ、良心的ならそのプランニングの成果まで目に見えるかたちにしてくれるようなのが、すごい優秀なプランナーとか、ディレクターとか、そういう立場の人なんだろうし、適切な視覚イメージを提供してあげるのがデザイナーなのだろうけれど、だとしたら僕はそういう能力に著しく欠けていて、デザイナーとしての能力に相当自信ない。あの、集団が何か何らかの情報開示をしないといけなくて、やる目的とか訴求対象とか、なんとなくは共有されてるものの、でもみんな根本ではボヤっとしたイメージしかなくて、そこで「なんかびしっとカタチにしてよ!」と言われるときの困惑はきつい。周りの人々が大体こんな辺りでー・・と指し示している「ストライクゾーン」を大幅に逸れた大暴投を投げる事の恐怖!
そういう時というのは、例えるならばボウリングしてるときに似てる。ここで8pin以上倒せば賞金です!と言われる時に似てる。…で、僕はボーリングとかが、超・下手なのである。ええ!?よりによって今、ガーターは在り得ないでしょ!なんかアタシ達に悪意あるでしょ!?とか言われるほど、天然・空気逆読み気質の人である。…そもそもボウリングがイヤらしいのは、なんか上手くいかないとき「フォームが悪いのか?手の乾燥具合が悪いのか?周りを気にしすぎていて、自分の本来の力が発揮できていないのか?そもそも選んだボールが軽すぎるのか?靴のサイズがきつすぎるのかも!?」みたいに、原因究明および解決がほぼ不可能なまでに精神の泥沼に入り込む事を如何に回避するか?に、ゲームに対するほとんど全てのパワーが注がれる事なのだ。大体、ちょっと上手く行ってしまって、スコアが好調な時も、アレはアレで嫌だ。なんか人生そのものが上手く風に乗って軌道に乗って、あれよあれよと言う間に所謂「勝ち組」的な人になっていたんだよね。とでも言うべき嫌らしい高揚感が嫌だ。それでいて、次のイニングでは(いつも通りに)奈落に落ちるのかも。とビクビク不安な自分を意識する感じも嫌だ。つまりどっちにしても、「駄目な僕」を見つめ続ける他ない意味において嫌なのだ。
…実際、デザインの仕事なんていうのは一体なんなのでしょう。その世界を、相当信頼して、かつ、その世界を相当タカ括らないと出来ない気がする。なんつーか、いじめに会わないような、適切な振舞いとしてのイメージ提示っつーか…。いかん。なんか文章がいじけ過ぎているが、でも僕にとって「人生」とか「世界」とか(笑)、っていうのは、そんな健全な「チャレンジ」が可能なものではないなーと思う。どっちかっていうとやっぱ「ボウリング」っぽいなーと思う。ここぞというときに、自分でも不思議なくらい想定外な事になって、フィールド以前でグチャグチャ自意識泥レスに嵌る意味での…。