夏の暑さ


今日は、朝起きて、西向きの部屋の窓を開けたら、爽やかな、ほんの少しだけ冷気を含んだ風がさーっと吹き込んできて、そのことに虚を付かれるような思い。あぁ今日はまだ少しだけ暑さもマシなのかもと思って、開けられる窓を全部開けたが、さすがに完全に涼をとれた、という状態にまでは程遠いものの、なんとかまだマトモに「夏の朝」の格好は保っていたように思う。


たぶんこれでやっと普通に「夏の暑さ」だよなあと思う。少なくとも朝なら、まだ多少の涼しさが一帯を覆ってないといくらなんでも駄目だろうと思う。まだ中学生くらいのとき、夏休みに、何かに熱中して徹夜状態で、気付いたら白々と朝が白み始めたのをみて、ふいに衝動的に外へ出て、そのまま目的もなくどこかへ自転車で走ったりしてたときの、あの、夜の暗さと透明な露がたっぷり含まれていて、さっきようやく青くぼんやりした明るさに晒され始めたばかりの、そういう夜明けの空気の、顔や手足にあたる不思議な冷たさを思い出す。あれが、夏というものだ。


でもまあ、それは昔話で、今の暑さにそれを求めても無駄。出かける頃にはもう、外の熱は空気をいつもどおり馬鹿みたいに一色で塗りこめていた。…しかしこれって、今更だけど、本当にこれって、純粋な混じり気の無い暑さではないよなあと思う。言うなれば、暑さにフクラシ粉をぶちこんでモコモコに膨張させたような感じというか、古い油でギトギトに揚げた感じというか、なんかそういうツナギ的な物質が介在して不純に濁って、暑さの即席再生みたいな感じすらしてしまう。いや、エアコンの涼しさがどこまでも人工的で嘘臭いのは当然だけど、今や外の世界の暑さまで嘘臭さを濃厚に漂わせ始めたのか。今やエアはコンディショニングされてるかされてないかの二つに一つなのか。


昨日みた上野の博物館の本館には、国宝である「治物語絵巻 六波羅行幸巻」 というのが展示されている。この絵をはじめて見たのはたしか、小学生か中学生のときの社会の教科書かと思われる。あの牛車のかたちとか黒のかたちが、やけに印象的だったのだ。もちろん当時の僕がそれを「良い」と感じている訳ではまったくないし、国宝とかの有り難味などもさっぱりだったので、単なる印象の記憶でしかないのだけど、でもそんな自分の昔の記憶にまだ定着しているというのが、自分で不思議にも思うし、自分の趣味というかかたちの嗜好・趣向の原風景である可能性も、あるのかもしれない。(そりゃいくらなんでもカッコ良すぎか。)


展示されてた絵巻をしげしげと見つつ、この横へ横へと流れていくような、ながれでもありながら、一つ一つがある意味のまとまりでもあるような描画物たちを観ていて、ここではきっと、人間がとりあえず目でぱっと見たとき、まずある一塊として、そこにあるまとまった意味として、好ましい分量で捉えられるような、程よい情報量の調整があるようにも思えた。兵士たちがまとまって陣形をつくってわーっと移動している群像が、全体でひとまとまりの何事かの「力」であり、複数台の牛車が並んでいるときの黒い車輪や柄の織り成す連なりによる、ある何事かの空間であるとか、いずれにせよ、そういう描かれたものひとつひとつが、何とも程よく、人間にひとつひとつを与えるがための小分けにされた意味のかたまりのようで、それを観ながら、もしかすると、良い形態というのは、意味の良いうつわである、ということなのかも、しれませんねと思った。