匠た本美日の―対巨決ち術暑い


上野の東京国立博物館へ。。超暑いし、気は進まなかったんだが、なんとなく惰性的な気分でだらーっと行った。混んでたらすぐきびすを返して速攻で帰るつもりだったのだが、実際行ったら、やっぱり混んでて、超暑くて、売り場に人が並んでて、しかも超!混んでて、二列に並べとか誰かがでかい声で叫んでて、人いきれがむんむんで、最悪の状況なのに、なんかもう惰性で、まあいいやどうでも…とか思ってずるずると投げやりに人に押されるように入場した。入場後、薄暗い展示室の真ん中の椅子に5分くらい座って、汗の引くのをしばらく待って、でも館内もかなり暑く、いつまでたっても暑くて、しかも四方は人がいっぱいで、あぁ阿呆らしいなあ何やってんだろ俺ここどこだっけもうどうでもいいや帰ろうかなあとか思ってしまったのだがそんなことを思う間にも単に座ってるだけの状態で普通に背中とかに他人の肘とかハンドバッグとかぽーん、どかーんとたまに当たってきて、あらごめんなさいみたいな感じで、ああこりゃもう修行だっつって逆に心頭滅却モードに突入しはじめてそれで気を取り直して「鑑賞」をはじめたら、やっぱりそれなりに「鑑賞」の感じになってくるもので、あぁぱ僕ってなんて見事に従順で環境に適応しがちな空気読みまくりのご都合人間なんだろうとつくづく自分で自分をほめてあげたくなった。


乾筆で一気に空間に切り込み、確定させたあとの、その結果をじっと見つめて、薄墨で各所を調整して、あとは鳥や草木の細部を施してゆく。いずれも、手短にすばやく。描かれるべき構成はおおむね決まっているのだし、イメージされているこの先目指すべきうつくしい強さも頭の中にあるのだが、でも本当にそこにたどり着けるのか?それはやってみなければわからないのだろう。というか、もし駄目なら、じゃあなぜ、そこにたどりつけなかったのか、想定外のことがおきるとすれば、それはなぜなのか?を切り詰めて、絞り込んでいく事が大事で、しかしそれでもなお、どうなるかわからない未確定で不安な何かが、おわりまでずっとその不安さをたたえたままでなければならないのが、絵というもので、だからもはや、描き手の絵筆を操る手の技は、神業に近いにも関わらず、まして、構成すらほぼ確定的であるにも関わらず、やはりそれは最後まで、上手くいくかどうかわからない。その不安から逃れることは絶対できないし、そこから逃げられた時点で、絵が死ぬ。


こめられた力のめまぐるしい変更がそのまま線にあらわれるかのような、その手首のおどろくべき柔らかさ。絵筆を固定する各指先の抜群な制御力。ここぞというときに一瞬で固まり、抵抗を感じた次の一瞬からはなだらかに力を抜いてゆく、その判断スピードのはやさ。


鳥のかたちをした黒いアクセントが全体に10箇所かそこら散らばる、というとき、それらがそれぞれ、どのような形状で、どのように関係しつつ、どのような方向を感じさせ、どのような運動を予感させれば良いのか、それは画面全体をリズミカルに波打たせ、揺るがせ、生き生きと活気付けるための、絵の主旋律を担う部分だ。いやそれは下図の段階からもう決まってるから。どれを、どのように描くのかは、イメージされてるから。でも、それって実際やってみても、絶対そうはならないのだ。でも、今の目の前のこの画面では、それは最初から決まってた事を、そのままやっただけです、とでも言わんばかりのあっさりさで、現実に完成している。


正直、この「松に叭叭鳥・柳に白鷺図屏風」での鳥たちそれぞれの姿格好と、黒の強さと、首や頭部や羽の向きやかたちと、それらが相互に絡み合いつつ画面を横切っていくときの、そこから与えられる「完全な感じ」というのをもっとしっかり腑に落ちるように解析したくて、それぞれの鳥たちの格好を皆正確に座標で写し取りたいとさえ思ってしまうのだが、たぶん仮にそれを実践しても、やっぱりそれは無駄なことなのだろうか。ここでの叭叭鳥たちのありさまは、もう単にこれだけの状態で、あっさり絵になって完成してしまっているので、それ以上でも以下でもないんだから、結局、その事自体におどろくしかない。いつまでたっても、何年たっても、飽きもせず、そういう事自体に驚き続けるしかない、のだろうか。