明日から2泊ほど両親の実家に行く。(用事半分、休暇半分)紀伊半島の先端にある小さな集落で、子供の頃から夏休みになると帰っていた場所で、そういう昔からの楽しくて甘美なユートピア的な思い出が自分の記憶にいっぱい詰まっている場所なので、あそこに行くと思うだけで不思議と心が浮き立つ気持ちになる。でもたぶん最後に訪れてからもう5年くらいは経っている。かなり久々である。ああいう田舎でも、5年もたつと家並みというか風景などが、けっこう大きく変わっているものだ。まあ大抵の場合、見慣れた風景の真ん中に場違いにどこでも見るコンビニがぼーんと立っていたりとか、チェーン店の店舗の看板がぱーっと光ってたりとか、そういう感じのなんとも白けるような「変化」である。でもそういうのを忌々しく思うというのは、普段全然その土地で生活せずに、昔のノスタルジーを引きずってるだけの僕みたいな人間の、勝手なわがままに過ぎないというのはわかっているのだけど、でもそういうのはやっぱり複雑なのである。
ああいう港町の景色というのは、潮風に晒されて少しずつ朽ちてゆく、ということが古びていくという事の具体的な表情なのだろうけど、そういうときの「朽ちる素材」としては、やはりもっとも王道なのは木材であろう。木材が年月を経て、真っ黒に炭化しているのはうつくしい。あるいは端の部分がほぐれていくのもきれいである。捨てられて放置された漁船の、なんと魅力的なことか。また、意外な事に「コンクリート」や「セメント」というものも、あるいは「鉄」というものも、結構なうつくしさを伴って朽ちるのである。コンクリートは堤防の防波堤を一部補強したり、魚市場を数メートル延長したり古い瓦屋根の建物の土壁が風化して崩れてしまったのを補強保全したりするのに多く用いられているようだが、これらが更に何十年かたつと、結構独特の味わい深さとなるのだ。中に差し込まれている鉄骨の棒が飛び出して、真っ赤に錆びたまま歪みつつ空に向かって飛び出していて、周りに夏の雑草が生い茂っている感じは、これはこれでなかなか悪くないものである。打ち込まれた釘の頭が赤く錆びているのが点々と並んでいて、それぞれから黒い涙のように錆が垂れているありさまもうつくしい。
朽ちる姿が美しくないというとき、その代表的素材はやはりプラスティック等の合成樹脂であろう。これだけはどうしようもない。いや、プラスティックの朽ちた姿だけが感じさせる「味わい」というか「表情」もあるのだが、これはどうしても従来の「風景」と親和性が高くないのだ。(むしろ埼玉の郊外とか、そのあたりの景色に朽ちたプラスティックは似合うような気がする。似合う、というか、東京郊外的な、その凄惨な厳しい殺伐感により強く親和するように思える。)あるいはアスファルトも、いまいちだ。アスファルトはまさに「道路を切り開いてきました、これで便利になりました」という意味が堂々と露呈してる感じで、その図々しさがいやな感じだ。しかも年月がたつと白っちゃけて雑草にまみれはじめて、それはそれで良いけどでもやっぱり朽ちてるというよりは、単に図々しく鬱陶しい感じなのだ。だからアスファルトも駄目。…まあ勝手な事いってるけど。
実際行くとその場所は、いつも想像とは違う表情をもってあらわれるので、今度はどんな感じであの場があらわれてくるのか、それが楽しみだ。