ユーロスペースの「猫たちのアパートメント」終映後に、伊東順子さん(編集・翻訳業)のトークイベントが用意されていて、そこでの話を自分の考えたことも交えて以下にメモ。
猫がかわいいとか、猫を愛玩動物として飼うとか、少し前まで韓国はそもそも、そのような発想がなかった。チョン・ジェウン2001年の長編デビュー作「子猫をお願い」で、登場人物の一人が仲間たちに子猫をあずける場面があるが、当時の韓国で、子猫とは少なくとも今の日本で認知されているような、あの可愛いイメージではなかった。ゆえにあの映画から受ける印象は、もちろん個人差はあれ、当時の韓国と日本とでは異なるものがあっただろう。
韓国では「野良犬」という言葉はあっても「野良猫」という言葉はなかった。「泥棒猫」という言葉はあったが。
韓国で犬や猫が、住宅内で人間と同様に生活し、ある意味で家族の一員のように扱われはじめ、そして動物愛護のような感覚が人々のあいだに芽生え始めたのも、おそらくゼロ年代後半くらいからだろう(2007年が境目だったはず)とのことだった。おそらくそれは経済状況をはじめとする、人々の生活基盤の変化にともなった何かでもあっただろう。
(「猫たちのアパートメント」では、廃墟と化した集合住宅敷地内に「地域ネコ」化した、しっかりと餌をもらい続けた栄養状態の良い猫たちが、二百匹以上いたとされる。住人たちがそのように給餌し続けたということだ。この餌の「潤沢な量」(共感や感情からくる思いの大雑把さ)もまた、人の猫に対する「今の認知の状態」を、あらわしている感じがする。)
(映画の中で、猫を救うための有志団体の一人が「猫に自分の思いを重ねてはいけない。猫は人間のリソースや環境を利用して生きようとしてるだけだ。猫から見たら私たちはただの缶切りだ」と言っていた。人間は猫に対して勝手に思い入れるし、猫はいつでも人間を缶切りだと思ってる。)
(これは僕の個人的な感覚だけど、日本で犬や猫に「立場の昇格」が起こったのは80年代から90年代にかけてではなかったかと思う。)
(僕の子供の頃には、飼い猫はもちろんいたけど野良猫も多かった。猫を毛嫌いする人も珍しくなくて、邪険に扱ったり追っ払ったりする仕草も、当たり前に見られた。)
(昔は犬も猫も、基本は人間の残飯を食べさせられていた。専用食品が簡単に購入可能になったのも、おそらく80年代から90年代にかけてではなかっただろうか。)
また、韓国のとくに都市部に暮らす人々にとっては、住まう建物の種類が、彼らのステータスをあらわす象徴的なもので、その最高峰にアパートメントがあるのだそうだ。だから韓国人にとってのアパートメントは、日本人がイメージするものとは少し違う。
韓国人は一軒家に暮らすという生活スタイルを日本人ほどには好まないため、住環境の最高峰が一戸建てではなくて、あくまでも超巨大集合住宅としてのアパートメントであるとのこと。「猫たちのアパートメント」で取り壊されるビル群も相当な規模だったけど、その跡地にはやはり何十階建ての超高層アパートが新築で何十棟も立ち並ぶ予定だそうで、数千だか数万世帯が、やがてその敷地内に暮らすことになるのだそうだ。
(伊東氏は「猫たちのアパートメント」を日本で上映するとの話を聞いたとき「日本でこの映画は、どのように面白さが伝わるのか?」と一瞬考えたらしい。単なる猫好きな人以外にも届くものだろうか?と。韓国を深く知る人物がそう思うという点が、むしろ興味深い。)
ちなみにチョン・ジェウンは2001年「子猫をお願い」で長編デビューしており、同年にはポン・ジュノも「ほえる犬は噛まない」で長編デビューしている。なぜか猫と犬の動物被り。今でもよく知られている通り、当時どちらの作品もきわめて高い評価を受けた。
そしてその後ポン・ジュノは映画監督としては大成功をおさめる一方、チョン・ジェウンは順風満帆とは決して言えないものの、彼女のキャリアを経てきた。今でこそ韓国に女性監督の名前が聞こえることもあるけど、それも今ようやく、という感じではないか、と。
ポン・ジュノは近作「パラサイト」もそうであったように、経済格差を上下階層に並べて見せることを一貫して続けている人である、と。
(「子猫をお願い」も「ほえる犬は噛まない」も、かつてDVDで観たけど、あれからすでに二十年近く経っているのか。どちらもすごく面白かったという記憶が今もある。そしてどちらも経済格差の存在する社会を背景として構成された映画であったなと思う。)
(ちなみにこの「猫たちのアパートメント」ではおそらくドローンによるものだと思うが俯瞰撮影の景色がすごい。最初と最後に出てくる敷地内の景色はきわめて印象的。)