ふと、文章を書きたい、などと思って、たとえばインターネットでブログを始めたりする、と言う可能性はおそらく誰でもありうるだろうが、しかしやはり誰もが、いざ書き始めて、それを数日続けると、もはやその時点で、当初「文章を書きたい」と思っていた地点からはずいぶん違う場所にいる自分を発見するのだろうと思う。書き続けている過程においては、当初思っていた「文章を書きたい」という気持ちが形作るうつわに、内実が充填されるような瞬間というのは、ほぼ存在しない。そこには、「文章を書きたい」などといった、そういう「気分」のうつわが易々と形成されてしまうような現場の生々しくも白々しい剥き身の生産工程が無造作に転がっているだけである。そのような場で、ただ現場作業を繰り返すしかない。
で、やがて繰り返しにくたびれてきて、ふと、文章を一旦書き止めたい、などと思って、毎日書いていた習慣をふと止めてしまうような事も、やはり起こりうるだろうが、しかしいざ止めてみて、それが数日続くと、もはやその時点で、「一旦書き止めたい」と思っていたときの地点からは、ずいぶん違った状況にいる自分を発見せざるをえない。文章を一旦書き止めて、その後数日経ち、数週間たっても、それは繰り返しがポーズされているだけでしかない、という認識は、意外な程根強く体内に残存する。それは、止まっているだけで、いくら待っても結局、「書いていない自分」というのにはついぞ、出会えない。書くのを止めている自分というのが、何ヶ月も続くだけという案配である。これはある意味、たちわるい。あるいみ、一番いやなのっかりかたである。この状態のままと較べたら、しょうもない事を毎日垂れ流してる方が、ある意味まだましかもしれないとすら思われる。
止めてみて、実際的な、効能というのは、これは結構ある。何しろ、昨日まで書く事にあてていた時間が、何の差っ引きもなく、そっくりそのまま、手取りで丸ごと貰えるのだ。これはすごい。何も書かずに、只、一時間か二時間、部屋でぼーっとする。ビールを飲みながら、音楽を聴いたり、気まぐれに本をぱらぱらとめくる。至福のひとときと言っても過言ではない。それを、お望みならば毎日やってもよろしい。これは素晴らしい。正直、この時間を手放して、再び「毎晩書く」モードを繰り返すのはちょっといや。…などという思いも依然として強くあるのだが、まあでも、ちょっと気が向きまして、久々にこうして書いてみた。明日は、書くか書かないか、わからないが、たぶん書くだろう。ちなみに、この数ヶ月、すさまじい勢いで音楽購入&鑑賞した。ユニオンとヤフオクに幾ら使ったのやら。。で、本はまったく読んでない。本の読み方をほぼ忘れたといっても過言ではない。あと、絵はとりあえず、ひとまずの着地点に来てるっぽい。今のこの状況で、ここまでのひとまずの自分のある種の限界っぽい。もちろんまたその後おそらくやぶれて、また更に進み行くのだが。