書いたものが本当に良いものなのかどうかは、明日の朝もう一度読み直してみないとわからない。とヘミングウェイが書いていた。しかしとにかく書くのだ。サンミッシェル通りのカフェでカフェオレを注文して、すぐにノートと鉛筆を取り出して書き始める。書き始めたらすぐに物語に入り込む。興が乗ってくる。深く沈降する。呼吸が止まる。まばたきもやむ。口の中が乾いている事にふと気づくたびに、カフェオレを含み、それがなくなると、ラム酒を注文し、グラスに注がれたその酒を見やりもせず口にし、ふっと息を吐き、また易々と没入する。向かいの窓際の席に、素晴らしい美人が坐っているのを頭の片隅にぼんやりと意識している。すごい美人。黒髪が艶やかに顔の脇に垂れ下がって頬のところで斜め一直線にカットされている。でもたぶん誰かと待ち合わせだ。誰だろう。いい男だと良いのだが。しかしあの女は美人だ。いまあの女は、いまだけは俺のものだ。いまだけは、全パリが俺のものだ。物語が勝手に流れ、展開していく。俺は最後まで泡を喰わないように慎重に注意深く、いままでの経験と直感を頼りにそのつど判断を繰り返しながら成り行きを見守るだけだ。ミシガン州。俺はいまこのパリで、ミシガン州について書いているのだ。さあもう少しだ。
仕事を終えて、でも書いたものが本当に良いものなのかどうかは、明日の朝もう一度読み直してみないとわからない。気付くとさっきの女は既に居なくなっていた。いつも仕事が終わった後に感じる空虚さ、満足感と不安とかなしみをいつものように感じる。生牡蠣をワインを注文する。海の味とかすかな金属の香りを放つ牡蠣を食い、冷えたワインを飲む。妻と二人で旅行に行こうかと思う。手持ちの金でなんとか行ける方法があって、それを妻に話してきかせることを想像している。旅行先でまたノートを広げて書く事を想像する。いまパリでミシガンを書いたように、旅行先でならパリのことが書けると思う。そのアイデアが素晴らしいものだという事を思い、それを素晴らしいアイデアねと妻が喜ぶのを想像し、自分の内側にもまるで子供のようなよろこびの感情がわきだしてくる。
さっきまで読んでいた本の内容を、記憶で再現。再現というか「そんなことまったく書いてなかった」と思われることも書き加えていて、これは悪い癖である。もともと何年か前にこれを読んで以来、僕にとって生牡蠣と白ワインは「特別なご馳走」に定義されている。お祝いの食事。値段や質など問題じゃない。貧相な牡蠣と安っぽいワインで充分なのだ。