受容することが難しいのは、もともと自分が一方的に受け入れるだけの存在ではないから、というのが大きな理由としてある。「寝ている間に全部頭に入ってたらラクで良い」などと想像するのは、まあ、気持ちはわかるが、しかし、受け入れようとする力と、自分がそれまでの自分として、受け入れに抵抗する力とがぶつかり合う事がなかったら、おそらくこの自分が、それを受け入れる意味はない。たぶん寝ている間に侵入されたら死んでしまうのだ。あえて、自分のなかに徹底的に受け入れようと考えた時点で、それは多少なりとも不自然な構えである。ひとまず受け入れて、後で取捨すればいいやとか、役に立てばラッキーで、役に立たなければそれで忘れてもかまわないとか、結局すべてが自分にとっての血や肉になるのだとか、色々言い方はあるだろうが、しかしおそらく、これらの言葉は全部嘘である。今それを聞くか聞かないかというのは、たぶんワンチャンスをものにするかしないかということであり、赤が出るか黒が出るか、ということでしかないのだ。なぜ今、こんな本を読んでるのか、なぜ今、ある懐かしい景色をインターネットで検索して見ているのか、それも、単なる成り行きで、だ。各宗教を較べて一番気に入ったヤツを信仰する、などという事は不可能である。
しかし恋愛においてはある種の打算はありうる。これはこれで馬鹿にできないものがある。決断の時点で自分が完全じゃない。結果的にそうなった。誰かを心に思いながらも、別の誰かを選んだ。なぜなら金に目が眩んだから、とか、誘惑に抗えなかったから、とか、何処までも自分の受け入れ能力や判断能力がなし崩しになっている情況を招くのが恋愛という情況である。というか、こうして書いてる時点で矛盾している。恋愛の情況とは、このように書くのが不可能な事態のことである。だから、意志も覚悟も愛も成立しないような、掘っても掘っても自分の中に沸く幻想しか出てこないような、絶望的に役立たずの観測装置を見つめながらの、グダグダした恋愛の成り行き任せというのは、それなりにきっと面白いのだと思うが、そういう小説で面白いのがあるか?というと、なかなか咄嗟には思い出せない。それも結局は、むしろ退屈な方が多いのかもしれない。