屈んで、靴を履き、ドアを開けて、鍵をかけて、外に移動する。前方を見ると、春先の緑を主調とした木々の色合いが展開している。気温は低め。風の動き。薄い緑色が空に溶け合う。大気が微粒子となって身体全体を包み圧し返されて渦を巻く。過重を前方に乗せて歩く。

 ポプラ、ケヤキは一日ごとに葉を増やしていき、緑を次第に濃くしていく。サクラはすでにすっかり花弁を落として、今だけはがくと芽吹き始めた葉が不揃いに生い茂った不調和で無残な有様である。地面にはほとんど染みのようになった花弁がまだまばらに落ちている。クスノキはこの時期になると落葉する。生い茂る葉の半分は茶色く変色して、地面に落ちる。クスノキ全体が、茶色と若草色の混ざり合った不思議な色合いとなる。そして地面には大量の枯葉。そこだけ見たらまるで秋のようだ。サトザクラは今が満開で、重みのある花が零れ落ちそうなほどの量感で咲いている。ヤマブキも先々週頃から満開に近く、着色料を思わせるほど鮮やかな黄色い花をいっぱいに付けて全体が水面に覆いかぶさろうかというような格好で垂れ下がっている。シロヤマブキも咲き始めて、これは白くて可憐な花が儚い様子で微風に揺られている。以上は妻から聞いた話をまとめた私の見解。

 腕時計の針が止まった。駅のホームにある時計が一時三十五分なのに、自分の時計は一時二十五分だったのだ。そのときは、あ、この時計遅れてる、と思って、そのまま忘れてて、後でもう一度ふと腕時計を見たら、まだ一時二十五分だったので、あ、これ止まってる、と気付いた。ということは、最初に駅で見たとき、止まってから十分しか経ってなかったということか。それはすごいことかもしれない。あと十分早く見ていたら、腕時計の針が止まる瞬間を目撃できたかもしれないのだ。しかし、いやちょっと待て。十分前じゃなくて、十二時間と十分前の可能性もある。すなわち前夜の午前一時二十五分に停止したのかもしれない。それ以前ということはない。なぜなら日付がちゃんと21だったから。

 買い物する。少し高いワインを買う。これが、やはりそれなりにうまかった。

 今日は運動(水泳)しなかった。法人会員契約のフィットネスクラブを安く利用できるので、最近は水泳している。水泳しているときは、ほんとうに何も考えてない。今何メートル泳いだか数えることにしか、考える事を使ってない。これは驚くほどそうなのだ。水泳しながら考え事は、ほぼできない。まあ驚くこともできない。できることはせいぜい、何メートル泳いだか数えるのと、腕や足に蓄積されてくる疲労感の、力の調整というか、強弱の配分とか、そういうことくらいで、それが関の山だ。それを上位で指揮する部分が、ほとんど停止しているか稼動していたとしてもそのことを意識できない状態になる。

 毎日のようにアマゾンのマケプレから品物が届くので、いったい幾ら買い物しているのかと妻に言われるが、安物ばかりなのでさほどでもない。The BandのThe Last Waltzの4枚組ボックスは前から欲しかったのだが、適当な価格の中古になかなか出会えないので、まあ、急いでないからいつでもいいやと思って海外からお届けのやつを半月かそれ以上も前に買って、それが届いたのが十九日のことで、同日にリヴォン・ヘルムの訃報を知った。The Last WaltzはやっぱりBob Dylanのところが熱すぎる。マジで血が沸く。あとはハウス。Frankie Knuckles関連のCDをざーっと買い漁る。ハウス全般が好きかというとそうでもないが、Frankie Knucklesはどれも好き。クラシックの名曲だけでなく最近のmixでもすごく良い。