「引込線 2013」航空公園駅からバスで行く。このへんは、地元から超近い。並木通り団地前というバス停のある、この通りはたぶん、十五年くらい前には、僕が車を自分で運転して、何度も通った道ではないかという気がする。そういうのを忘れてしまっているというのが酷いけど、自分の二十代後半頃の記憶で、いつかこの道を通ったかも、みたいなレベルの些細な記憶となると、ほとんど虚構だったのではないかというくらい茫漠としている。むしろ夢で見たことのあるイメージが急に現実になったみたいな感じの方が近い。…しかしこの、とにかく埼玉県の、このあたりとか家の実家の近くの、こういう郊外の畑とか電柱とかフェンスとかの、埃と錆びと道路のひび割れの感じとか、ほんとうにうんざりするような景色で、ああ嫌だなあ何もかわんないなあと思う。


展覧会は相変わらずとても面白い。やはり、利部志穂の作品をどうしてもひたすら観てしまう。ほとんど、何かちょっとした予兆というか、気配というか、ほんの少しの働きかけ。しかし、そっとした様子の繊細な手つきとか、そういうのとも違う、もっと、ごわっとした、ぶっきらぼうな、がさっとした、想像の先回りがない、囲い込まれていない、共有されている範疇でうごく人間の仕業ではないような、たまたま残った痕跡のような、そもそも実際、どこからどこまでのことなのか、あれはそうなのか、これは違うのか、どこから見て、見たことになるのか、見たとは何のことか、そういうのがすべて何も手がかりはなく、とにかくそのように、見えるか見えないか、感じるか感じないかのところの、じつに淡く微妙な面白さ。


前回は行きは歩きで帰りはバスだったが、今回は帰りは歩いて駅まで行った。前回より今回の方が暑さはマシ。航空公園の中や駅前には実物の飛行機が公共の置物となって展示されているが、ああいうものを見て、なぜあれが、空に飛ぶのかということを、どうしても考えてしまう。その機体の外壁の感じ。羽根の感じ。全体的なサイズの、妙にこじんまりとしたどうにも頼りない感じ。あの全体が、宙を飛び、外気に直接触れて進とは。あの小さな小窓の中から、外を覗けるとは。プロペラエンジンの脇から突き出た排気口、あそこから排気するとは。あのプロペラが実際に回って、それで滑走路を走って、宙に浮かぶとは。それらすべてが、実際にほんとうのことだとは、どうしても思えない。飛行機に対する、そのような根本的な不信感を僕はもっているので、空港でこれから飛行機に乗るときに、そんな風に思ってしまったとき、じつに憂鬱になる。恐怖というよりも、なんとなくバカバカしいような、自嘲的に笑いたい気分になる。身体が実感として信用していないものを、とりあえず社会的に約束されている幻想として無理矢理信じて乗るのだから、気分は暗くなってあたりまえ。科学技術に心が躍るのではなくて、機構に心が躍るタイプ。飛行機の「目に見えなさ」が、もっと知識を増やして「目に見えて」くれば、たぶんもっと「安心」するのだろうけど。