「日本の家 1945年以降の建築と暮らし」東京国立近代美術館。建築関係の催しはいつも活気があって入場者が多い。2014年に観た埼玉近美「戦後日本住宅伝説…」展を思い出すというか、そのときに展示されてたのと同じ作品もいくつかあったが、見たことのない写真なども多くていっそう面白い。
水平、垂直の仕切り。螺旋状またはクロスして昇降する階段。これらに身体が囲まれて、住む営みが開始されるという前提に立って家の模型あるいは平面図を見ているのは面白い。家は人間の生活をある程度規定するフレームみたいなものになって、自分の身を置いたらどうなのか、その想像をはたらかせて、自分の生活を重ね合わせて、その空間内にいる自分を意識してみたり、空間が時間によって変化していくのを想像したりもする。もちろん時間を経て自分の身体も変わるし周囲の質感や空気も変わっていくだろう。今は僕は、時間の推移がその構造に対してどう影響を与えていくかを想像してばかりいるようだ。主にそのことばかり考えてしまう。たぶん先日、父親の住む家の老朽化を見たことの影響だろう。
基礎があって、その上に住宅が乗る。基礎は土に埋め付けられている。黒い湿った土の奥までしっかりと刺さっている、とする。なぜかよくわからないが今の僕には、土がまるで黒い水のように感じたりもする。土の黒さと湿り気。日本の気候、日陰のじめっとした場所の土。そのような土の上にコンクリートの土台が作られる。コンクリートも水分を吸う。年月が経てば乾くが、それでも水分は含む。汚れを想像する。土、砂、カビによる汚れだ。温帯湿潤特有の汚れと老朽と劣化だ。
建物は朽ちる。五十年代に作られた建物は、すでに汚れて、所々朽ちているだろう。それを維持するには人間の努力が必要である。それでもいつかは朽ちる。いつか死ぬのと一緒だ。今は僕は、建物と死を比較的近接的なものに感じてしまっている。キレイな場所と汚い場所はどうしてもある。見えるところと見えないことろの差異を消すことはできない。
建物がどのように構造されバリエーションを為すのか、どのような身体移動がありえて、その都度どのようなフィードバックを身体が受けるのか、それと同時に、物体が基礎の上に立つこと、風雨に晒されて、朽ちていくこと、その避けようの無さをずっと想像し続けた。しかし、悲壮な気分で見ていたわけでは全然なくて、ひたすら面白がっているだけなのだが。というか、こんな模型や平面図や写真ではっきりと「死的」な気分に浸れること自体が楽しい。
水周りがどの位置にあるのかが、すごく気になって、どの模型でも図面でも、そこを確認せずにはいられない。今の僕なら、家の中心にトイレと風呂を存在させたい。そこは住人が身体を清潔にする場所であると同時に、その場所そのものをいつまでも清潔にしておくために存在する、その家に住む意味として、常に清潔にしておくべき領域があらかじめある。いわば神棚とか仏壇のような位置付けの場所。もはやそれを健全に維持できないなら、人間の方が住居から拒まれてしまうような。
あるいは、風呂トイレ共同の賃貸住宅というものの可能性を考えるべきなのか。…そういえば、集合住宅というか敷地内にいくつかの建物があり、大家と借主で住人が構成されているのだが、中には風呂のみの建物もあって、あれなどおそらく共同風呂という事になるのか。水周りの共有化は今は不便さとしか思われないが、将来、また別の捉え方ができるのかもしれない、とか。
一つ一つをかなりじっくりと丹念に観ていたら時間が経つのが早かった。