エレベーターの二階に着いて、並んでいるドアの番号を見て、202号室のドアベルを鳴らして名前を告げた。インターフォン越しに、どうぞ、そのままお入り下さい、と返事がある。
ドアを開けると、狭い玄関の向こう、廊下の突き当たりのドアが開いて、女性がこちらを見て「いらっしゃいませ。」と言う。
「すいません。先ほど電話した坂中ですが。」
「はい。いらっしゃいませ。どうぞ。そのまま土足でおあがり下さい。」
いいのか?と思ったが、言われたとおり、土足で上がった。
ドアの向こうは六畳くらいのダイニングで、右手にキッチンがあって、中央に二人掛けのテーブルが一つある。
その向こうはやはり六畳か、もう少し狭いくらいのリビングで、二人掛けの一人掛けのソファーと、中央に小さなテーブル、壁際にはテレビがある。
とても普通によくある、夫婦で二人暮らしという間取りの、一般的なLDKのマンションの一室だ。この人がおそらく奥さんで、背を向けているのがご主人か。
「いらっしゃいませ。そちらのお席にどうぞ。」
勧められたダイニングテーブルの片方の席に坐る。小さな紙片を渡される。
「食前酒は何にいたしますか?」
「シャンパンを下さい。」
「シャンパン。かしこまりました。」
女性が、背後にある冷蔵庫を開けて、シャンパンのボトルを取り出す。ちらっと見えた冷蔵庫の中には色々と食材がぎっしり入っていたが、しかし何の変哲もない一般家庭にある冷蔵庫の食材という感じだった。近くのスーパーの袋にくるまれた何かの塊りもいくつか見えた。
冷蔵庫の隣には流しがあって、その隣にはガスコンロがある。ご主人がこちらに背中を向けて、今何かを仕込み中のようだ。ご主人は寡黙なようで、まだ一言も口をきかないし、こちらを一度も振り向いていない。僕はここに来てから、まだご主人の顔を一度も見ていない。
シャンパンが供された。「本日はようこそお越し下さいました。こちらがメニューでございます。右側がグランドメニューで、左側が本日の仕入れと季節のメニューでございます。」
「今日のお魚は何ですか。」
「本日はイサキでございます。それと、先日からポルチーニ茸が入荷しておりますので、よかったらいかがでしょうか。それと、モンサンミッシェル産のムール貝はシャンパンにぴったりだと思います。とても大振りの身で、おすすめでございます。」
「わかりました。ありがとうございます。ちょっと考えます。」
「お決まりになりましたらお呼び下さい。」
奥さんはそう言うと、リビングの部屋へ行って、ソファーに腰掛けて、リモコンをテレビの方へ向けた。テレビの電源が入って、ざわざわとしたテレビ番組の騒音が聴こえ始めた。僕はシャンパンを飲みながらしばらくメニューを眺めて注文内容を考えた。
たまに、奥さんの笑い声が聴こえた。テレビのギャグに笑っているらしい。
奥さんを呼んだ。「すいません。」
「はい。ただいま参ります。」
奥さんはリモコンを操作して、立ち上がった。テレビ画面が静止画になっている。録画した番組らしい。
「お決まりでしょうか。」
「はい。それでは…」
考えた末、決めた組み合わせを、奥さんに伝える。
ご主人が無言のまま、背中で注文を聞いている。