直す


高野文子「奥村さんのお茄子」単行本「棒がいっぽん」収録のバージョンも読んだ。


まず、初出版にどうしても感じられる説明不足感はこちらでは完全にリカバリーされていて、物語としての完成度はぐっと高くなった感じがある。また絵も全編ほぼ描き直したという感じがひとコマひとコマの安定感というか落ち着いた揺ぎ無い空間の表出までをも感じさせ、全体的に危なげない完成度高い一品になったという感じがする。


しかしそれでもやはり初出版の方が良い、と言う人が多いのではないかと感じられる。なにしろこんなにわかりやすく、細かいところまで説明できるような話じゃなくてもいいと思ってしまう。初出版にあったどうしようもない物語の細部の説明不足な感じと、それでも勢いとテンポで最後まで行ききってしまい、ラストまでの流れに行き着く感じというのは、これぞ高野文子だというテンションが張り詰めているように思われる。


その後、「ユリイカ」特集*高野文子に載っている大友克洋との対談で、まさに「奥村さんのお茄子」について話している箇所を読んでいて、ああなるほどこれは・・・と思って面白かった。これは肝に銘じるべき言葉。

大友 ここまで直してしまうと、その辺はむずかしいよね。手塚治虫にしても、直したものより最初のほうが良かったとはよく言われるからね。

高野 その時読んだ人にとっては、それが一番よく思えるというのもあるし、実際につまらなくなってしまったという可能性もあって。モームは小説を読むと「よくぞ、これ以上ひどくしないで、ここまででとどまってくれた」と思うんですって。たいがい作家はどんどんつまらなくしてしまう、と。普通の読者は、ここを直せばもっといいのにと欲を言うものだけれど、そういうものではないよと言ってくれてる。このモームって人はやさしい人だねえ(笑)。

(中略)

大友 なんで直そうと思うの?足りない?それとも失敗したと思う?

高野 失敗したと思うんですね。これは最初はもっと面白かったんだよ、と。

大友 それはみんな描いてる時に思うことだよ。発想しているときが一番面白いんだから。それを下書きして絵におとしていく段階で、どんどんつまらないものに見えてくる。頭の中で考えている時にはもっと面白かったのになといつも思うよ(笑)。

(中略)

大友 でも、自分がそこで客観的に読めているかどうかなんてわからないよね。だから俺は描いたものを自分であまり見ないようにしているんだけど。自分が思っていないところが面白いという人もいたりするからね。ここが面白いんだよ、ここ読めよというところが読まれないで、どうでもいいようなところが「いい」と人気が出てしまうことだってある。作ってる時は、自分でも読者をコントロールしているつもりなんだけど、できあがってしまったらもう自分の手を離れるわけだから、どう読まれても仕方ないよね。それをまた六ヶ月先の別な自分が見て、つまんねえなと直そうというのは、傲慢な話かもしれない。俺も直しているから、人のことは言えないけど(笑)。


たとえば、ブログは毎日時間ない中で、ばばっと書いて、直しなんてほとんどしないで、いわば書き捨てるみたいに書いていて、だからほとんどゴミだけどゴミならではの不思議な組み合わせの妙みたいなものが生まれてくる余地はあるなあと感じることがある。それにくらべて、手元でひたすら書き直しているようなものというのは、結局どんどん悪くしているだけなのじゃないか、一番肝心な、新鮮な旨味の部分が、とっくにダメになってしまっているような、犬も喰わないようなものをセコセコ直してるだけなんじゃないか、などと思うことがある。


でも、徹底的にいじり倒すことで醸し出される迫力というか説得力というものがあるのもまた事実だ。


しかし、多分、考えすぎはすべてを台無しにするのだろう。作るという行為にあたっては、考えの過程とか結果よりも、どちらかというと運動神経の方を信頼すべきなのだろう。