小野里の話


かなり前から、ずっと小説のようなものを書いている。このブログも、ブログなんだか日記なんだか、小説なんだか、よくわからないようなものだとは思うが、このブログとは別に、もうちょっと長い、ひとつらなりのものを、ちまちまと書き続けていて、それが小説を書いているということになるのかどうなのか、自分としては本気でよくわからないのだけど、着手したのは、もう五年以上前のことだが、最初のうちは細かい断片がブツブツと出来るだけで、せいぜい数十行かそのくらいの内容でまとまってしまうと、そのあと何も展開しない。そういうのがいくつも出来るだけだった。そういうことをしてると、とにかく自分は長いものを書きたいのだと思っているだけだというのが、よくわかる。ただでたらめに長いのではどうしようもないけど、ある条件に引っ張られて、必然的に長くなっていくようなものを書きたいのだと。文章が、こんなに長く書かれるなんてことは、普通に生活していたら考えられないし、長いものを読むのだってそうだ。しかし、大量の文字を読んでいくことで出来上がっていく独特の空間というものがあって、これが一体何なのか。それがわからないと思いながら、ごちゃごちゃと書き続けていた。


あるとき、今ある手元のこれは、もしかすると長く行くかも。と思い始めたのが、今年の五月くらいだ。少なくとも、今書いているものの一番冒頭部分の最初のイメージが出来上がったのが、そのあたりの時期だ。小野里さんが、路上を歩いているところから始まる。小野里さんは、このブログにも何度か出てきたことがあるけど、僕のなかに何年も前から存在している仮構の登場人物である。別にモデルが居るわけでもなく、現実を元とするイメージがあるわけでもなく、ただ小野里という名前が与えられているだけで、あと性別が一応女性となっているだけで、それ以外には何も決めてない、無属性の入れ物のような感じだ。自分が何か言葉で試してみるとき、そこに仮組みであてはめてみるいくつかの人称のうちの一つ、という感じだ。


で、冒頭でこの女性が歩いているシーンの最初のイメージができたとき、すごく奥行きのあるゆたかなイメージをたたえて、文字通り歩き出してくれた感じがして、そのときに思い出したのは、完全に自分が絵を描いていたときの感触だった。はっきりと画面にイメージを描き始めたときと同じ感覚が体内に宿った。もう今まで何十年も描いてきたことを、今度はこれを言葉でやるのかと思って、つくづく自分は自分でしかないというか、結局自分は、また同じことをやるんだなと思った。まさに、自分にやれる事はたったの一つだけ、という感じだが、それもかえって踏ん切りがついて良かった。とにかく現時点でこの話は、ひとまず離陸に充分な強い揚力と加速を得ていると思うのでこのまま行こうと。


それで、八月くらいに全体の大体のかたちが決まってきて、しかしその時点では、相当問題もあるように思えたので、九月以降もさらに手を入れて、今日の時点で、また一区切りかもしれないと思っている。また気持ちを入れかえて、はじめから読み直してみて、さてどう思うか?というところだ。


いまのところ登場人物は四人。字数は65,371字だから約160枚くらい。おそらくまだ細かくは修正するだろうけど、もう大きくは変わらない気がする。タイトルはまだない。