昔は、子供の頃は、60歳とか、そんな年齢の人物が偉くないとは、思ってなかった。いや、そうでもないか。でも、少なくとも、60歳は、子供ではないはずだった。それは比較的最近までそう思っていた。しかし最近は、自分がすでに45歳だし、もう60代も70代も自分に近いようにも思えるし、彼らを自分たちと違う世代とか、親の世代とか、断絶とか、そういうのはあまり感じなくなった。単なる、同僚という感じだ。その言葉が、いちばんしっくりくる。本気で、僕は彼らの同僚だと思ってる。でも彼らを、そう遠くないうちに、引継ぎしないといけないような、リミットの近い人たち、だとは思うが。
意志を貫くことと、譲歩すること、どちらも素晴らしい。でもそれは、「どちらも素晴らしい。」と発してくれる場所に彼らが赴いたから、そう言われて、それで素晴らしくなったのだろう。それはそれでいいけど、そうじゃない人のことも考えなくていいのか。
寛容と不寛容について考えるとき、自動的にマハトマ・ガンジーのことを思い浮かべる。またあらためて、ガンジーに関する本を読みたいと思うが、何を読めばよいのかはよくわからない。読まないほうが良いのかどうかも、よくわからない。マハトマ・ガンジーだって、もしかしたらろくでもないやつなのかもしれないじゃないか。
自分のことを愛せるか?自分のことを愛している自分を、冷静に見ている自分は、その自分を愛してるか?それはもしかして、他人でも自分でもない対象に見えないか?