80年代初頭の漫才ブームのとき僕は小学生だったが、当時の漫才をテレビで見て面白かったかといえば、さほど面白いとは思わなかったはずだ。とくに紳助・竜介、B&B、ツービートらは、あまりにも話の展開が速すぎて、少なくとも子供の自分には、何が何だか全然わからなかった。そもそも小学生のときは、漫才とか、テレビのバラエティ番組自体あまり好まなかったと思う。ドリフは面白がって見ていたと思うけれども。ひょうきん族もあまり見てなかった。漫才だと、しいてあげるならオール阪神・巨人とか今いくよ・くるよとか、かなり王道保守的なやつか、あとなぜかヒップアップのコントも好きだった、というか、それで笑った記憶が、かすかにある。
今当時を思い出して、ツービートは数ある漫才コンビの中においても、きわめて不良っぽいというか反抗的な雰囲気をたたえていて、子供の頃の自分は、そういう感じをあまり好きではなかったのだが、当時、偶然テレビで見て、なぜかいまだにおぼえているネタがある。それはたけしが、地獄に落ちたという設定のネタで、鬼に連れられて、釜茹地獄だの磔地獄だの火炙り地獄だの、色々なやり方で酷い目に会っている様子を見学していて、やがて自分も、どれかの地獄で責め苦に会わなければいけないのだけれど、どれも辛そうだし、困ったなと思って、ふと見るとでかい池みたいなところに、大量にうんこが溜めてあるのだという。で、そこに人々が首まで漬けられて、首だけ突き出した状態で全員タバコを吸っているのだという。そういう責め苦の地獄なのだ。でもこれなら、汚さを我慢すれば、身体的苦痛もないし、タバコ吸えるなら匂いもごまかせるし、他と較べたらかなりマシな地獄だろうと思って、さっそくこの責め苦を受けることを鬼に申請して、了承してもらう。そしていよいよ、その池に身体を沈めて、しばらくして何か様子か変だなと思ったら、さっきの鬼がやってきて池に浸かっている全員にこう告げた。「はい、休憩終わり。みんな潜って。」
その後、十年か十五年後に、肥溜めに潜るシーンというのを、何かの映画で観た。たぶんナチスの強制収容所のシーンで、追っ手から逃れるために、便所にいくつも空いた肥溜めの穴から、たくさんの子供たちが頭だけ出して、人の気配がすると、皆があわてて潜るのだった。
No Music、No Life「音楽がないと生きていけないなんて、ウオシュレットがないとトイレには行けない、とホザく今時のガキと同じじゃないのか」と昔、福田和也が意地の悪いことを書いていた。ウォシュレットがなくてもいいけど、ある程度衛生的な方がいいな、とは思っている。ある基準値みたいなラインをもし下回った場合、さすがに僕も動作停止する。そのあたり、たしかに自分の脆弱さは自覚している。公園でBBQとか、音楽フェスとか、野外イベント全般とくにそうだが、常にトイレには悩まされる。あんまり利用したくない場合が多い。最近はまあ、そうでもないかもしれないけど、なかなか寒気をおぼえるというか、自分のナーバス度が最近基準値越えしているのだと思うけれども、ああいう場所が、この世に存在していて、自分と地続きで、同じ空気を共有している、というだけで、気が落ち込み、塞ぎ込みたくなるようなところがある。そんな僕はばかだ。その性根を叩きなおしたいと、思う気持ちもなくはない。これから先、どんどん老人になるのに、そんな事言ってたらマトモに生きていけない、いや、別にもう老い先短いからマトモに生きなくてもいいけど、それだとなんだか頼りなく怯えてばかりの余生になりそうな気がする。それじゃだめだ。むしろトイレ掃除の仕事をしようかと思う。そういえば、駅や会社のトイレを掃除している作業員は、なぜ老人ばかりなのか。あれ、若い人はやらないものなのだろうか。清掃業者。清掃業者。保坂和志「未明の闘争」で、主人公と村中鳴海は、便所掃除をしながら旅を続けようと考えるのじゃなかったっけ。便所掃除をしながら生活するっていうのは、とても凄いことなのではないか。
で、昨日見た夢が、小便のいっぱい入った壺を掃除しているという夢だったのだ。何年にも渡って無数の人々の小便を受け入れてきた大きな壺で、それはそれはものすごい状態に汚れているものを、覚悟を決めて掃除するのである。でも、その気になると意外なくらい汚れが落ちてキレイになるものだから、わりと懸命に仕事をしているのだ。傍らには、同じフロアで事務仕事をしている派遣の女性がいて、とても手馴れた手つきで同じ仕事をしている。いつものように世間話などしながら、ガンガン洗っている。こういうこと、自分にも、やればできるのだな、やってみるもんだなと思っている。
排泄物といえば、田中小実昌の戦争をモチーフにした作品にも、そういう話はたくさん出てくる。排泄物の処理は、もっとも基本的な公共仕事ではないかと思うが、売春はもっとも初期に生まれた職業の一つだとか何とか言うけど、排泄物の処理は、職業としてはかなり後の方なのだろうか。そもそも昔は一箇所に排泄して、それをわざわざ処理したりはしてなかったか。農作物の肥料にするために肥え桶に溜めて運んだり、そのあたりでようやくというところか。下水によって隠されてしまったので、僕のような脆弱な人間も生まれてしまったわけだが、もっと糞尿は身近だっただろうし、匂いもそうだったろう。
発酵したものは美味しい、ということは、匂いの酷いものだって美味しい可能性はあるのだ。あるいは、おそろそく非衛生的な場所で食事をするとか、不潔な食卓と皿と食器を使うとか、それによって独自な美味しさを見出すということもあるかもしれない。
食べ物も、粗末なものとかでも、美味しいときは、しみじみするくらい美味しいものだ。そういう味わい方、ぐっと過去の記憶にまで引っ張ってくれるような味覚のよろこびというのがある。そのときの匂いに、おそらく色々と混ざっているのだ。