なんとなく、クリスタル

はじめて読んだ。前々から「一度は読んでおかないと」と思ってはいたのだが、昨日からなぜか急に、読み始めてしまった。1980年の作品で、描かれた舞台となる東京のその時代がモチーフになっている。主人公の由利は昭和34年(1959年)生まれで、80年当時は21歳くらいか。ちなみに僕は1971年生まれで、主人公とは12年離れていて1980年当時は小学三年生である。そして由利も僕も亥年で今年は年女年男である。まあそれはどうでもいいが、1980年とは、現在六十歳の女性がかつて学生だった頃の話、ということである。

読んでみると、由利はなんとなくの気分重視で生きているようなイメージと思いきや、実はそうでもない、その生活は極度にストイックで啓蒙的とさえ言って良い。学生でもありファッションモデルでもあり生活に困らない程度の収入があり、恋人であるミュージシャンの淳一と対等に音楽の話をし、共に輸入盤屋でレコードを探す程度にはAORやブラコンなどの音楽に詳しくて、淳一が帰ってくる日には少し高級な食材を買ってきてフレンチやイタリアンのレシピを参考に料理をしたりもする。住まいである神宮前近辺のほか買い物で必要なら明治屋にも紀伊国屋にも行くし千駄木の千代紙も買うしアメ横にも行くし浅草も好きで、渋谷の町は混雑が酷くて同じ格好の人が多すぎるから嫌いである、学生らしくディスコやカフェやデザートの店やバーにも行くけど、お寺や美術館にも行く、商品を消費することで知的なもの、洗練されたもの、芸術や文化に対するあこがれに近付こうとし、東京という場にふさわしく意味の偏りのないフラットで軽快な人物であろうとしている感じがある。それは既にかなりのレベルで成功しているのだが、本人は勿論今のままで問題なしだとは考えていない。「クリスタルなアトモスフィア」とか、カタカナを使いはするけど、要するに普遍的とも言えるような存在の不安をかかえている。向上心と洗練への憧れを持ちながらも自信はなく孤独をおそれ不安に落ち込むこともある、裕福で凡庸で善良な若い女性である。今更だけれども、これを学生時代に数週間で書いてデビューした田中康夫は偉大だ。由利のあこがれは我々のあこがれでもある事を認めないわけにはいかない。

(もちろん貧乏人の自分がそれにあこがれる資格はないが、また別の形としてそれはある。)

(しかしもういいかげん、そういうのを解脱したい、卒業したいとも思う、各自の生活をうつくしくするという言葉の自らに掛かってる誤解を解きたい、ばかばかしい、ほんとうはそうじゃないはずだと再認識したい、そんな思いが今更共振するわけだ)

本作における膨大な"註"の存在はおびただしくちりばめられた各店名やブランド名や場所名自体の説明というよりも、それが認知される際の空気感とか共有意識を説明することに力が注がれていて、こういうのは恥ずかしいとか、こういうのが本当の○○を知る人だけが訪れる店だとか、やたらと排他的高踏的に読む者を恫喝するテイストに満ちている、こういう下世話な挑発を"註"に担わせて、そのような怖い世界を颯爽と生きている主人公の由利自身を汚さないような配慮がなされているとも言える。つまり小説の形を借りた何かのサンプルに本作は落ちてなくてきちんとした小説に保たれている、由利は最初から最後まで善意の第三者的に小説の主人公として存在する。きちんと著者が、描いた主人公のことを好きなんだろうというのが感じられる。そういうところは、結構大事なことではないか。

で、後半にかけて、由利の恋人への思い、その性的快感で「やはりあの人は特別」と自覚してしまうくだりでは、「なんだ結局は肉体なのか…」とは確かに感じるしそれでいいのか?とも思うが、いや、ここはむしろ古風な女性の反動性が出てないとダメなのだというのも、わかる気はする。結果的に、絵に描いたようなものすごくふつうの結末に定着させるところが型としてきれいなのだと思う。