キャンプ

真冬の富士山のふもとに、アウトドアやキャンプ好きの人々が集まってきて極寒の中テントを張って過ごしているのをテレビでやっているのを見ていた。車でやってきて、テントの中や焚き火の傍で、思い思いに食事を作ったりコーヒーを淹れたり酒を飲んだりして過ごしている。こういうのは実際に体験したらきっと楽しいのだろうとは思う、外で食べるごはんやコーヒーが格別に美味いだろうというのは、たしかに想像できる。

いつもと違う住空間で、いつもと違う食事と飲み物を摂取して、いつもと違う休息の取り方をして、そしていつもと違う朝の目覚め、いつもと違う場所で目を覚ますことの面白さなのだなと思う。様々に販売されているアウトドア製品も、巨大なテントや椅子やテーブルや炊事用具や照明器具や何やら、何もかもが、今ここにある見慣れた住空間を囲っている様々なもの一つ一つにきちんと紐付くけど、そのどれもがちょっとした差異を含んだ代替品で、これらがまったく別のロケーション下で、私の生活をこれまでと同じように維持してくれて、かつこれまでの生活をちょっとした差異のフィルター越しにたしかめることもできるという、とても手っ取り早い生活感覚のリフレッシュを促がすことが可能なのだと。

だからつまらないなどと言う気はなくて、むしろ惹かれるくらいで、というか僕も「キャンプは楽しそうだな」と以前からぼんやり思っていたのだけど、そう思う理由が、テレビを見ていたらなんとなく自分なりにわかったような気はした。テレビに映ったその夜明けはテントも地面も表面が霜で真っ白になるほどの低気温で、こんな場所に野宿するなんて信じられないという感じだが、むしろ極地であればあるほど期待が高まるような、多少の不便さもかえって刺激になるような高揚感が漲ってくると、そういう感覚はたいへんよくわかる。

でも結局は僕も妻も、キャンプするだなんてまずありえない。それはそれで、やらないことはほぼ確定している。だから要するに、ここで思っているだけの話なのだ(自力ではやらないし他力を借りる気もしないので実施不可能なのだ)。

ちなみに、旅行に行って食事してホテルに泊まるのも、ある意味同じような体験には違いないけれども、僕は最近は、朝、目覚めて目に入った天井が見慣れないものだとして、ああそうだ、今日はホテルだったと思い出すとき、なぜだか妙に不吉な、ぼやっと憂鬱な思いが一瞬だけ去来するのだが、あれはなぜなのか。自分がやばい夜を明かしてしまったかもしれない恐れ?それもあるのか、いや、それも無くは無いとしても、毎朝、目が覚めて、今ここがどこかを思い出すというとき、どうしても、これまで書物で読んできたナチスの収容所体験の話が、トラウマのように思い出されるからかもしれない。あるいは映画「悪魔のいけにえ」の終盤で、監禁された女性が意識を取り戻して状況に気付いたときの絶望感を。