自宅から持参されるお弁当は、よほどのこだわりをもって準備されるものをのぞけば、大抵の場合前日の夕食からの残り物を活用して作られることが多いだろうし、うちもそんなやり方で妻が毎朝用意してくれて、それはもちろん大変ありがたいし、加えてつくづく思うのは、なぜ単に小さな箱に詰めただけの食物が独特な美味しさに感じられるのかということだ。箱に詰めて運搬されて、数時間後に開封されるだけなのに、それが美味しさに結びついているなんて、まことに不思議である。作りたて、出来たて、加熱したてが美味いというのはたしかにその通りだが、むしろ時間を経たもの、冷めて硬さを増したもの、浸潤のいきついたもの、酸化のすすんだものこそ美味いというというのも否定しがたい。
おかげで市販の弁当を買わないといけない日は稀だが、今日は朝のうちに食品売り場のお弁当コーナーで買ったものを昼に食した。そういうときはいつも、できるだけボリュームの少ない、揚げ物や肉類を避けたシンプルなやつを選ぼうとするのだが、それでも食べて驚くのは、その味わいの濃さである。弁当の全領域、どの部分を食べても、塩分がまんべんなくいきわたっていて、これとくらべたらいつも食べているお弁当の質素さ、簡便さはすごいと思うが、それでも自家製弁当にあってこれら市販弁当に決定的に欠けているのは、時間が経っていることによる独特な風味、密閉された小さな暗い箱の中で全体が一様にじょじょに酸化していき、蓋を開けるとそれまでの数時間分がふわっと漂うあの気配みたいなものだ。あれは食材へのこだわりとか調理技術とかそういう話ではなくて、食物が本来もつ特性によるもので、それを作る人間が大きく介入できるものではなくて、最低限の仕事の手間だけがあって、そのところどころに手抜きのあとがあって、旨味はそのすき間の部分に漂うとも言える。市販品は酸化防止剤の使用以前に、手抜きの揺らぎがなくて時間による変容を許してない感じがある。