ここで

Fさんの日記を読んだら、彼と彼の友人のバンドメンバーが我が住まいの最寄り駅周辺で丸一日音楽活動をして夕食して帰宅されるまでの様子が書かれていた。駅を降り立って待ち合わせたメンバーが揃って、ああ、あの本屋だなとか、歩いているのはあの通りだとか、あのイトーヨーカドーにフードコートはないでしょとか、僕にはその景色を容易に思い浮べることができるような描写がたくさん出てくるというめくるめく展開で、あぁしまった、そうだFさんが足立区まで来ることは数日前の日記にも書かれていたのに、その後、ついうっかりしてた。先日の日曜日だったのか。…って、単にFさんが我が家の傍に来たからって、あらかじめこちらが何をどうしたかったとか、そういう意味ではないのだけど、しかしできれば僕があらかじめ、駅周辺のどこかに隠れて、誰にも気付かれないようにこっそりとFさんご一行の歩いたり談笑したりしてる様子をのぞき見することができたら、僕は楽しかったかもしれない。なんのために双眼鏡を持っているのかと言えば、こういうときのためだよなあと思った…というのは冗談だが、やはりほぼ毎日、文章として読んでいる世界とそこに出てくる登場人物たちが、いきなり見慣れた日常という現実世界にあらわれてそこにリアルに息づき活動しているというのが、すごく面白く思えて、いわばテレビの芸能人を間近で見るとか、そんな経験の面白さにも近くて、なのでせっかく駅前にあのバンド(本物)がいたのに見逃してしまったとか、まさにそんな気分だ。

ところで「本物の芸能人」を見たいというのは、メディア上のそれと、"生"のそれとのギャップを楽しみたいのだ、という考えは、誰もが必ずしもそう思っているわけではないのか。対象(芸能人)を見ることの面白さではなく、対象(芸能人)が「本物」として、"生"で存在するその場に「この私」もいるということの方に重きが置かれている、ということなのかもしれない。群がる野次馬が、芸能人の写真を撮りたがるのは、そこに「本物」がいたことの証拠ではなく、そこに「この私」がいたことの証拠としての写真、なのか。

それにしても、こんな辺鄙な街にレコーディングスタジオがあるなんて全然知らなかった。

雨のよく降るこの星で(仮)2019-10-06
http://diary20161111.hatenablog.com/entry/2019/10/06/000000