自分の身体を、常に意識せずにはいられないのがゲイで、僕はゲイではないが、しかしその感覚はとても重要なものに感じる。というか、自分が自分の身体につつまれている存在であることを常に意識しないではいられないという意味に限定すれば僕はゲイであるかもしれない。「ノンケ」はそのような感覚をもたない。自分の身体を抽象的なものとしか捉えてないし、ゆえに欲望の先にある肉体をもなかば幻想的なものとして認識する。「ノンケ」は他者を、他者とその肉体との混合物であると捉えることがない。「ノンケ」にとっては自分も他者も大体おおざっぱなイメージでしかない。そのおおざっぱさに向けて本気の全力をあげて突き進み、機械の精巧さと速度をもって移動し、やがて秩序を支える諸力に加わる。その呑気さと悠長さとガサツさと大らかさ、速度と暴力の美。…いや、僕は「ノンケ」のくせに、そんなことを言うのは欺瞞ではないか。僕が何をわかるのか。僕はなんでもわかるのか。そんな筈あるまい。僕はゲイの気持ちもわかるが、僕はおそらくホモフォビアの気持ちもわかる、と言うのか。ホモフォビアが何を恐れ、何に苛立ち、何に激怒し、何に自身のもっとも触れられたくない個所を直に触られたと思い背筋を凍らせるのかがわかる。自分自身としてわかる。また、自分とは違う彼らの弱点を嘲笑したい気持ちにもなろうと思えばなれる。しかしそれは畢竟、自分が何もわかってないということでもある。「ノンケ」というのは、非・当事者ということでもあるだろう。わからないしわかる必要がない立場ということでもあるだろう。それはある意味、幸福なことでもあるだろう。しかしそんな幸福が存在するなんて想像もできない、そんな幸福にあこがれ、魅了されつつ、当事者として別の地平を行く一部の人がいる。彼らもまたゲイではあるだろう。