忘れた

大岡昇平「捉まるまで」は素晴らしくて、何度でも読み返したくなる。

彼はそのまま歩き出し、四、五歩歩いて私の視野の右手を蔽う萱に隠れた。(前に書くのを忘れたが、私の右手山上陣地の方向は、勾配のかげんで一寸した高みとなり、その方は伏した私の位置からは繁った萱しか見えなかった)

上記の引用で「前に書くのを忘れたが」とある。

小説を書いていて「前に書くのを忘れた」と書いて、前に書き忘れた内容を、そのときに書く。そういうことも、たしかに可能ではあるが…と、それが、妙に印象に残る。

以前書いた個所があり、それに関連する箇所をいま書いているとして、「これは書いてなかったな…」と思って、「前に書くのを忘れたが」と前置きして、そのことを書くという、文章も一つの演技である。演技ではない文章なら「前に書くのを忘れた」とは書かなくても良い。実際に忘れたとしても、小説を書いている途中で、ある程度まとまった個所が出来るたびに、その都度読み返すだろう。読み返したときに忘れた内容を同箇所につけ足せば良いのだ。事後的には付け足しようがなかったとしても、忘れたとわざわざ書く必要はなく、前に書いたことの補足として書くなり、あるいは前置きなど省くなり、様々なやり方が可能なはずだ。書き忘れたことを書き忘れてないように修正することが不可能ということは考えにくい。

しかし、忘れたからいま書くけど・・と、そういう書き方が許される、というよりもそういう書き方で語りを演技付けるのが小説だ。むしろ、忘れたからいま書くということの繰り返しが、文章を小説たるものに変えていくというべきか。

ここでは「あのとき、あの瞬間」が、どうだったのかを、一つ一つ細かく正確に思い出そうとしている、次第に紐解かれていく記憶と、その解釈の成否を判断する思慮の動きが、感じられなければならない。記憶の正確さ、細緻さと共に、それを為している人物(私)の思考が回転する動作音のようなもの、過去を反芻していく過程で、思い出すと実際にはああだったこうだったと、そんな内面の動きにともなって、たぶん書き忘れていたのではなく、前述の箇所のディテールが今必要になった(書きたくなった)だけなのだが、前に書き忘れていたことを今思い出した、だからそれを今書く、という書き方になる。それで説明や証拠の提示ではない「小説的な動き」が生まれる。