やる

山下トリオの「Clay」(1974)が、再生された。この15分間を、何度かわからないが、これまでの何十年かのあいだに、くりかえし再生した。これがはじまると、はじまったと思う。やりはじめたと思う。やりはじめて、やりおわるまでが、びっしりと、みっしりと詰まっているので、そのあいだは、じっと黙ってやり過ごすしかない。ほとんど葬式で念仏を聴いてるようになる。聴いていて、ものすごく脈拍の上がる念仏に耐えている感じになる。

まず、やってる人はとんでもなく気合に満ちているのだが、そんなことは当たり前というか、そんなことはどうでもいい。いま、この場にいて、わきあがる出来事全部に、気づいて、反応して、すべてをすくいあげるゲーム、ふつうの人間には無理、言うだけなら簡単だけど、現実は不可能、そんな無理ゲーを、すさまじい気合に満ちた三人が、それをガーっとはじめて、ほとんど空前絶後のレベルでほぼ完璧にやり遂げてしまった、という結果の記録だ。

これは、その成果がすごいと言ってもしょうがない気がする。成果はたしかにすごいが、誰にもできないようなことのすごさは、オリンピック選手の記録のすごさで、それはその人だけのすごさだから、私はそうではないというところに戻ってくるのは仕方がないし、むしろそうあるべきなのだが、それをそうせず、妙に隠ぺいして、情緒的な共感の物語にするのはよくない。できた人はできた人だし、できない人はできない。私だってできない。

すごさとは、結果ではなく、その過程にしかない。さっきも言ったように、気づいて、反応している、その瞬間ごとには、聴いているこちらも、しっかりと没入する。それは0.1秒だけ成り立つ感情移入だ。0.1秒だけの感情移入なら容赦してあげたいし、むしろそんなふうに移入したい。0.1秒だけの物語なら、むしろ肯定して、それに寄り添いたい。それはほとんど疑似的な私の死だ。私は15分間のあいだに、0.1秒ずつ何度も死んでいる。いままで維持されていたはずの願いもあこがれも、きれいに細切れになって、すっきりとしてさっぱりとした新生児が0.2秒に一度ずつ生まれる。

やるとは、つまりそういうことだ。そういう結果を、人に後から追従させるような手法だ。それはたしかにすごいが、しかしやり方はほかにもある。やるだけが、やり方ではない。やらないというか、あまりやらないようなやり方もある。やってることのすごさは充分に感じながらも、あんまりやってないやつもいい、それもすごいのだ。それはあまりすごくないけどすごい、という言い方しかできないようなすごさだ。つまりやってるものがすごい、という言い方と同じレベルには載ってこないものだ。本来違うのだが、それを無理やり説明しようとするので、あまりすごくないけどすごいといようなごまかし方になってしまう。むしろすごくはない。ぞの例がいま、思いつかないけど、何もやるだけが、すべてではない。