他所

上野、御徒町なら、どの道でもだいたいわかる。渋谷は、わからない。さすがに、けっこう何度も行ってるけど、いまだにわからない街、という印象がある。横浜は十年通っているので、さすがにわかるけど、横浜駅桜木町駅、あとみなとみらい、馬車道、その程度しかわかってない。関内や石川町のことは、わかるというほどわかってはいない。横浜は、所詮他所だという思いもある。いや自分にとって、すべてが他所なのだけど。

池袋はさすがに知っている、との思いがあるけど、でも池袋なんて数年に一度しか行かない。二十代の頃に毎日いたから、いまだにそう思うだけだ。当時の店も何もかも、まったく無くなってしまったはず。しかし大まかな地理は元のままだから、だから知ってると思える。迷わないと思える。新宿もそうで、それなりにわかるつもりだが、そう思ってるだけではないか。迷うことはないと思うけれども、そうでもないかもしれないし、何よりもあまり用事がない。ここに行きたいという場所が昔とくらべて無くなり過ぎた。

秋葉原も、むしろ電気街以外ならよくわかる。神田へと抜けていく方角。あれはわかる。わかるというよりも、親しみをもっているのだ。結局、場所についてわかるとかわからないとか知ってるとか知らないとか、それは何よりも親しみを感じているかどうかだ。馬喰町、浅草橋、神田、小川町、神保町、その界隈を、知っているだなんて思わないけど、なんとなくイヤではない感じ、それが、勝手な思い込みであっても、親しみとして働いている何かだ。

四谷、まったく知らない。荻窪、一時期通勤してたけど、親和を感じることはない。国分寺は高校生の自分がいた場所、国立は高校生の自分が胸をときめかせた場所、中野や高円寺や阿佐ヶ谷は、結局自分にとって縁がなかった場所、三鷹西荻窪も、高校生のときを思い出す。吉祥寺もそう。いまだに吉祥寺をわかってないと、今日久々の吉祥寺を歩いて、あらためて思った。ほんとうに、右も左もわかってない。どこに行けば何があるのか、この先に何があるのか、まるでわかってない。ただただ人が多い。自分と無関係に、今までもこれからも、ずっと他所のままだ。