「生きている」とはどういうことか、とか「物質」とはどういうことか、という本質談義は後回しだ。二つの領域をまたぐ発展や推移を問題にしているときは、各項を固定的に定義してしまうと身動きが取れなくなるのがオチだからである(たとえば「子ども」と「大人」をガチガチに定義すると、「子供が大人になる」ことがパラドクスになってしまう)
平井靖史「世界は時間でできている」72ページ
ふつうは、まず考えの要素となる部品の定義をしっかりと定めるところからスタートすべきだと思いがちだけど、そうではなくて、まず各要素は変数として扱い、数式的な処理の流れを検討しようと。その骨子をいったん作ってから、各素材を代入してみようという試み。
ここでひとまず変数として留保される値が、観念論から来る値なのか実在論から来る値なのかを問わないというところがすごいというか面食らう。いくらなんでも、そんな突拍子もない値を受け入れられる関数はないでしょ…と思うのだが、それはそうではない。そもそも実在論なのか観念論なのかという問いの立て方に、あやふやさがある。この考え方はそれに基づいている。
そもそも実在論なのか観念論なのかが、「それはどこにあるのか?」という問いから生まれている。「どこ」が問題なのだ。それは空間の問いだ。そうではなくて、時間の観点から検討しなければならない。空間の前提から離れよう、そのために空間前提の既存イメージを自覚しよう、ということ。