黒沢清「蜘蛛の瞳」 (1998年)を最初の30分くらいまで観る。ダンカンが経営する会社に入社した哀川翔は、デスクワークとしてひたすら書類に判子をつく仕事をしている。A4の紙の、上左右と下に合計三か所、機械のように一枚一枚、丁寧に捺印し続ける。
この映画をはじめて観たとき、自分はすでに働いていたのか、まだ学生だったのか、あまりよくおぼえていないけど、しかし仕事というのは多かれ少なかれ、こういうものなのだろうなと、そういう気分で見ていたところはあった、というか、そういう場面だろうと思われた。
今、こういう場面を久しぶりに観て、あるいは自分が、現場に入ってきたばかりの人に、ほぼこれに近いことを指示したこともあるのではないかと、その行為の「意味」も含めて、ぼんやりと想像してしまうことに、軽い衝撃を受ける。このことに意味があるとか無いとか、これが誰だとか自分だとか、そういうことではなく、いやそういうこと全てとして、様々な思いがよぎる。
哀川翔と妻との二人の暮らしは、亡くした娘への喪失感に彩られてるのかもしれないが、案外、そうでもない感じもする。あえて言えば、どうも自分と妻との二人の暮らしと、そう変わらないような気もするのだ。
働く人の映画、労働がテーマの映画でもあるよな…と思う。
ダンカンの「ニイジマ!お前じゃなければダメなんだよ!」という言葉は、そういう類の言葉は、言葉そのものではないにせよ、仕事の空間には、ある意味頻繁に飛び交っているとも言える。
とはいえ、だからと言って、これが仕事関係に割り切れるものだということでもない。割り切ってもいいのかもしれないが、いずれにせよ我らが社長の立場は、どんどん悪くなっていくようなのだ。
その一方でニイジマの喪失感、虚無感は、映画としてはそれが主軸にある語るべき対象であったとしても、あたかもそれは、もともと無かったものへの喪失感、虚無感のようだ。まるで、もともと無かったものに対して我々が感じ取るなつかしさのように。
久々に、菅田俊の声を聴いたけど、じつにいい声だ。