ザ・シネマメンバーズで、シャンタル・アケルマン「私、あなた、彼、彼女」(1974年)を観る。
これを作ったときの作家本人はまだ24歳。その年齢ですでに腹を括ってるというか、作家として全くブレてない感じがして、すごいものだと思った。ある種の図式性というかパートに分けて見せる方法は「…ジャンヌ・ディエルマン」にも見られたけれど、本作はほとんど物語の自然な流れを犠牲になるほどはっきりと分けられた異なるシチュエーションを用意することで、まるで実験体のように登場人物である一人の若い女性を描こうとしている。
本作は、主人公が部屋で一人過ごすパート、男と行動を共にするパート、女の部屋で食事をしベッドで抱き合うパートの三つのシチュエーションで構成されている。
第一のパート。ほとんど美術系の映像作品のように、無機的な室内と女の裸身がえんえんと固定ショットで捉えられている。私(身体)があって、私を部屋が取り囲んでいる。余計な家具類を全部取っ払い、ホワイトキューブ内に私という肉体が、砂糖を匙で口に運びながら、手紙を書いては床に並べながら、ひたすらその場に留まっている。
第二のパート。主人公が服を着て、いきなり部屋を後にする。ヒッチハイクで乗り込んだトラック運転手の見知らぬ男性と知り合い、まるで恋人同士のような関係が展開される。しかし男性にとって彼女は、たまたま出会った遊び相手の対象以上ではなさそうだ。自らの欲望を処理させてからはやけに饒舌になった男性の一人語りがえんえん続くのを彼女は聴いてる。
第三のパート。訪れた部屋での、主人公と女友達とのベッドシーンが真正面から捉えれていて、これが激しくて濃厚で容赦ない。二つの白い肉体が軟体動物のように絡み合い、お互いをむさぼり合う様子が、やはり固定ショットでひたすら映される。最後はほとんど何を見ているのかわからなくなってくるほどだ。
男性あるいは女性との関係が描かれていて、性的なモティーフが中心であるが、快楽とか苦痛という要素は欠け落ちている。男性はいかにも男性的で、仕事や家庭や妻と子そして性欲に対してまったく保守的な感覚をもっているが、そのことは本作で決して蔑まれるべきことのようには描かれてなくて、むしろ「マトモな男」のようにも見える(若い女とたまに浮気するのがマトモなのかどうか…という話も含めて、大きな括りでマトモなのだ。つまり健全で健康なのだ)。また本作に、男性と主人公との交接シーンはなく、触れ合いやキスシーンさえない。飲食店で無言で向かい合うか、飲み食いするか、車内や室内で見つめ合うシーンが殆どである。
だからこそ最後の、女友達とのレズビアニズムのシーンとの対比が強烈なのだが、このベッドシーンはこれはこれで快楽や愉悦の気配がほとんどない。まるで白い軟体動物同士のレスリングを観続けているみたいでもあり、フランシス・ベーコンの絵画とか、あるいは「ラストタンゴ・イン・パリ」を思い起こさせるところもあるが、なにしろゴールや目的のない行為を二人がえんえんと続けている様子に呆れつつ、途方に暮れさせるものがある。
本作には結論がなくて、朝になり主人公は女友達と最初に約束した通り、ベッドから一人抜けだして部屋を出て行き、映画は終わる。ほとんど比較のためだけに三つのシチュエーションが並んでいるといった感じで、この割り切り方が本作においては面白さに転じていると思う。撮るだけのものは撮った、あとは並べるだけでOKという割り切りが、面白さにつながっていると思う。