野菜炒め

小学生の頃、仲の良い友達のグループがさらに友人を呼びこんで、秘密裡に「お気に入りメンバー」だけの集団を作って、その者らで学校近くの空き地で野球をやって遊んでいた。その野球を、彼らは「野菜炒め」と呼んだ。「野菜炒め」に参加できるのは選ばれたメンバーだけで、それ以外の者には口外されず、秘密の活動が続けられた。

小学生ならではの排他性が支えた「野菜炒め」の存在は、やがて少しずつ知られはじめて、メンバーもじょじょに増えはじめて、当初の発足メンバーが「最初の頃はよかった、今はもう面白くない」などと言いはじめ、やがて瓦解、解散していった。

今おもうに、排他的であることは、その場だけの小さく閉じた面白さしかもたらさないし、秘密にしておく理由がその小さな面白さを維持するためなら更につまらないことだが、「お気に入りメンバー」だけの集団が野球を「野菜炒め」と呼称したことは、そこにはまた別の面白さの萌芽があったのかもしれない。

それは野球ではなくて、あくまでも「野菜炒め」であるというとき、彼らにとっての野球は、彼ら以外が思う野球ではないものとして認識されていた。それはいわば野球の新バージョン、あるいは野球とは言えない新ジャンルの遊びだった、あるいはそうなるかもしれなかった。

間違っていたかもしれないけど、少なくとも彼らだけはその可能性の尻尾を掴んでいた。一人では持ちこたえられない、あるいは忘れてしまうかもしれないその「面白さの予感」を維持するために、当初の彼らは集団を作ったのかもしれない。

個人ではない集団(組織)とは、どうしても鬱陶しさ、厄介さのつきまとうものだけど、個人では不可能なことを成し遂げることができるのもまた集団(組織)だ。その良し悪しにかかわらず、新しい何かは、小さな集団によって保護育成され、形を成していくことが多いのだろう。