たとえばPrinceの"Parade"(1986年)とか"Sign O The Times"(1987年)を聴くと、意外に古さを感じさせるところがないではない。たとえばスネアの2泊目と4泊目の異様なリバーブの強さ。それは勿論、作り手がそれ以外の装飾的な要素を意図的に欠落させたがゆえに、残された一音に対してもともと施されていた効果だけが、隠されることなく丸見えになってしまった。そのスカスカさこそがファンクネスを分泌させるのだが、しかし年月を経たことで、音の古さが他の要素によってごまかせない状態になってしまったのだと思う。

80年代当時のサウンドから余計なものを取っ払った結果が、Princeのあの異様な音楽なのだとして、フリートウッド・マックの"Tango in the Night"(1987年)を今回聴いて驚かされたのは、古くて当然の音がほとんど違和感なく聴けてしまったということだ。というかむしろ、あーそうそう、80年代サウンドとはこういうものだったんだ、こういうボワッと膨らませたようなリッチ感を、当時はみんな楽しんでいたのだと、深く納得させられるものがあった。もちろんリマスタリングによってその音質は向上し現在に最適化されているのだが、フリートウッド・マックサウンドの場合、それがより効果的で、今も違和感がないものへ仕上がってしまうのだ。

でもこれって、たとえばクイーンの楽曲をいつ聴いても、古びた違和感を感じないのと同じことか。つまりポップ・ミュージックとしてのバランスが突き詰められているから、かえって風化に強い。先鋭的なことをやると、かえって風化の影響を、もろに受けてしまう、その先鋭感さえ、どうしても当時の土台を外れては実現できなかった。そういう皮肉な側面はあるのかもしれない。

というか、時間の流れに真っ先に影響を受ける部分を、あえて剥き出しにしておくこと、そのリスク込みで意図を隠さないことこそが「尖った表現」ということなのかもしれない。逆にすぐれたポップ・ミュージックとは、決して内部の仕組みを見せず、できるだけ耐用年数を長く保つ、そのための品質向上を至上として作られてるものかもしれない。