ナイチンゲールについて考えるにあたり先週から読んでいるのは、荒木映子「ナイチンゲールの末裔たち――〈看護〉から読みなおす第一次世界大戦」である。
ナイチンゲールの話は最初の一章だけだが、赤十字社設立とか、訓練看護師の国家登録制とか、第一次大戦下のボランティア看護要員とか、そこでの戦争体験をテーマに据えたモダニズム系文学の書き手たる女性作家たちや、ヴァージニア・ウルフの戦争観、女性観と、イギリス国家という枠内で看護・医療・軍事・文学をまたいで描き出されている。あらためて、権力とは何かを考えさせられる。
看護とはナイチンゲールにとって、職業ではなくて召命であった。だから男性ではなく女性こそが、その本能によって従事すべきであったし、その知見がむしろ職能になってはいけないのだった。しかしナイチンゲールにとって、医師は職能そのものであり、だから当時はまだ数少なかった女医に対して、あれは男のまねをしたいだけ、と批判的だった。
女性が担うべきは看護であるというのが、信念の根本にあった、かもしれない。女性が男性と同等に社会進出するとか、参政権を得るとか、それらをめぐる動きや言説にも終始冷ややかであった。赤十字社の成立には協力を惜しまなかったようだが、当初その趣旨にやや懐疑的だったらしい。本来国家が担うべき傷病兵に対する責任を、国際組織によって曖昧にしてしまわないだろうかと。
ナイチンゲールにとって看護の近代化(インフラ構築)は国家が受け入れ進めるべき課題で、それは国家として望むところでもあり、だから彼女は自室のベッドから表舞台の男たち(陸軍大臣や政治家)を酷使しつつ、幾つもの指示を与えて土台を整えていったわけだが、もう一方の近代化、つまり看護という行為を「召命」として身の内に受け止めるというとき、それは女性一般が、という単位ではなく個人としての、「この私」としての女性、彼女らひとりひとりの自覚において為されねばならなかったのだと思う。(だからマニュアル化はできないし、機械化も自動化もできず、どこまでも属人的である。)
もともと19世紀ヴィクトリア朝時代の上流階級に生まれ育ったナイチンゲールは、男女とか身分とかについては保守的な側面をたぶんにもった人でもあっただろう。だから彼女は、女性が女性の社会的価値や位置づけを動かそうとするのではなく、女性が自己の内面を掘り起こすことによって、自己の内にまだ眠っているあらたな可能性--たとえば看護という召命--を発見する必要があると思っていたのではないか。(そのような認識こそ、権力と組み合わされる「知」としては扱いづらく、だから権力側にとって厄介なものではないのだろうか、と、これは希望的で楽観的な思いつきに過ぎないが…)
(男性に看護は無理、とナイチンゲールは言ってるのだと思う。もし昨今のジェンダーに関する議論を彼女が知ったらどうだろうか、何となく思うに、いっさい認めない気がする。なにしろその使命を受け止めた女性でなければ看護は無理、その一点張りではないかと想像する。)
(芸術家とは職業ではなく、作品は職能で生み出されるものではない、という言い替えも可能だと思う。そう言わないと国家従属である。でもそうなりたい人はたくさんいるから、それはそれでいいのか。)