ギャラリー「空豆」で井上実展。千束池駅から歩いて数分の場所なのだがその手前、駅前に広がる洗足池公園がすばらしいロケーションだった。ちょうど天候も崩れず暑すぎずで、予約した時間まで池のほとりのベンチに座っていたのだけど、このままいつまでもここに居ていいと思うほど快適だった。

絵はたいていの場合、描かれる前から絵であることがわかっているし、絵と称して、実質的にはすでに出来上がったもの、すでにわかっている結果の再生産である。肖像画であれば、完成品はモデルとの関係をもって人々から鑑賞される。そこに何らかの「表現」が介入するなら、作品はモデルとの関係から自由になるかもしれないが、表現すなわち予期された何らかの期待、想定、待ち望まれたものとの関係をもって鑑賞されることになる。

人間が待ってない場所へ向かおうとする音楽あるいは小説あるいは映画あるいは絵画というものがあるとする。にもかかわらず、向き合ったそれは、正面から自分の対峙を許す。今ここで自分の役割を簡単に放棄してしまっても良いはずで、絵は絵であることから、簡単にずり落ちてしまって良いはずなのに、かろうじて絵であるとする。

あまり自由に遊ぶな、勝手に想像を広げるな、うっとりするな、なるべくそれの前で留まれと言われる。なるべく慎ましくしていろ、黙っていろと言う。礼儀作法や道徳の問題ではなくて、とらえ方、考え方の話だ。お前の態度が気に入らないと中学の先輩から言われてるのだ。すべてふさわしくないと指摘されてるのだ。

その正面から向かってくるそれ、網の目、隙間、ぶつかるところと通り抜けるところ、水分の乾いた痕跡、乾燥までの時間内の出来事、写真と同じ内容、同じ価値を、別の物流手段で運んできたもの。

自分が勝手に知ってる、居心地の良い過去の思い出を呼び寄せることではなく、今ここにある現実の匂いに合わせ込むのでもなく、現実として知らない場所に放置されている。その条件において、はじめて見えるものを見ている。

たしかに、千束池駅に僕ははじめて訪れたのだ、そもそも五反田駅に下車したこと自体が、はじめてのことかもしれないのだ。ならば、この場所に慣れないのは当然だ、この草叢の匂いに違和感を感じるのも当然だと思う。そう感じる自分を、何も間違ってないと思う。